新唐書卷一百四十七 列傳第七十二 李叔明

生涯

  • 李叔明は字を晉といい、閬州新政の人、本姓は鮮于氏。兄の鮮于仲通は天宝末に京兆尹・剣南節度使。共に学問を修め財を軽んじた。楊国忠の劍南判官を務め、乾元中、司勲員外郎として漢中王李瑀の回紇使に副使として同行、回紇の無礼を毅然と諫めた。
  • 洛陽平定後、洛陽令として遺民を招撫、商州刺史、京兆尹を歴任(「前尹赫赫…後尹熙熙」の民謡が伝わる)。崔旰の成都騒乱後、東川節度使・遂州刺史から梓州に治所を移した。大暦末、鮮于姓から嚴姓への復姓を申請し許された。
  • 建中初、吐蕃の火井襲撃・龍州掠奪に対し撃退、検校戸部尚書。梁崇義討伐にも功があり検校尚書左僕射。徳宗の興元幸に際し私財で軍を助け太子太傅・薊国公。20年に及ぶ東川治世で撫接に優れ、貞元3年(787年)死去、諡は襄。
  • 仏教・道教の弊害を憂い、僧道の定員制限を建言(各寺観の在住人数を制限する具体的提案)、徳宗はこれを天下の法とすべく尚書省で議論させた。都官員外郎彭偃・刑部員外郎裴伯言はそれぞれ更に厳格な年齢制限や還俗策を提案したが、いずれも実施には至らなかった。
  • 子の李昇は徳宗の梁州出奔に従い禁軍将軍に抜擢されたが、郜国公主事件に連座し羅州別駕に左遷。李叔明自身は蓄財に走り贅を尽くしたため、没後数年で子孫は驕り財産を使い果たし、世人は彼を戒めの例とした。