新唐書卷一百四十五 列傳第七十 王縉

生涯

  • 王縉は字を夏卿といい、本太原祁の人。兄王維と共に名声があった。草沢・文辞清麗科に上第で及第。安禄山の乱で太原少尹として李光弼を佐け功を上げ、河北宣慰使を経て黄門侍郎・同中書門下平章事に至った。侍中、河南・淮西・山南東道諸節度行営事を統括、東都留守として軍資四十万緡を費やし宮室を修復。朱希彩の李懐仙暗殺後、盧龍節度使に任じられたが軍を朱希彩に委ねて帰任した。太原将の反抗を斬って軍紀を保った逸話がある。
  • 元載の専権に対し曲意迎合し忤らわなかった。仏教に篤く帰依し、代宗の仏教信仰を利用して「内道場」を設け、僧侶を厚遇して財貨を浪費させた。五台山の祠の鋳造に巨費を投じ、災異を仏教の功徳と結びつけて帝の信仰を深めさせた。盂蘭盆会の盛大な儀式を恒例化させるなど、元載・杜鴻漸と共に大暦の政治を宗教偏重に導いたとされる。
  • 貪欲で親族の不正蓄財を放置したが、元載の獄で劉晏の弁護(「重刑には首従の別あり、共に死罪とすべきでない」)により死罪を免れ、括州刺史に左遷。のち太子賓客・分司東都。建中2年(781年)、82歳で死去。

黎幹――生涯

  • 黎幹は戎州の人。星緯の術に長け翰林待詔から諫議大夫、寿春公。祭天の礼制論争で、薛頎・帰崇敬らの「景皇帝を始祖として天地に配すべし」との説に対し、鄭玄説を根拠に「禘祭は五年に一度の宗廟の大祭であり天を祭るものではない」とする『十詰』『十難』を著し激しく反論したが、結局は景帝配天説が礼制として定着した。
  • 京兆尹として樵薪不足を解消するため漕渠開削を進めたが完成せず、私的な余興を交えた行為が帝の不興を買った。刑部侍郎、魚朝恩の獄に連座し桂管観察使に左遷。大暦8年(773年)、再び京兆尹として旱魃時に土龍による祈雨を試みるも効果なく、孔子廟への祈祷を帝に笑われた。涇水の障害除去や鄭・白支渠の開削で農地灌漑を進めた功もあった。
  • 貪暴な性格で財色に耽り、徳宗が東宮時代に宦官劉忠翼と共に危険な陰謀を企てたとされ、即位後にその罪が露見して除名・長流の末、藍田駅で賜死。劉忠翼(本名清潭)も同時に誅された。