新唐書卷一百四十五 列傳第七十 元載

鳳翔岐山の人、字は公輔。宦官李輔国・董秀を利用して代宗の信任を得た玄宗~代宗朝の宰相。魚朝恩誅殺に協力して権勢を極めたが、賄賂の横行や豪奢な生活で悪名高かった。大暦12年(777年)、帝によって逮捕され賜死、一族も刑死した。徳宗の代になって名誉回復され改葬が許された。

年表(5件)
  • 天宝初明・荘・老・列・文子の学を問う詔挙に高第で及第する
  • 至徳初江都采訪使李希言の副使に推挙される
  • 大暦8年773年吐蕃の邠寧侵攻を機に原州の要害化を献策する
  • 大暦12年777年逮捕され賜死。妻子も死を賜り、私廟・邸宅は破却される
  • 興元元年784年官位が回復され改葬が許される

生涯

  • 元載は字を公輔といい、鳳翔岐山の人。父元昇は本姓景氏で、曹王李明の妃元氏の田租管理の功により元氏を冒姓した。元載は幼くして父を失ったが学問を好み文章に優れた。天宝初、明・荘・老・列・文子の学を問う詔挙に高第で及第、新平尉。至徳初、江都采訪使李希言に副使として推挙され祠部員外郎・洪州刺史。度支郎中として財務手腕を発揮し粛宗に評価され、戸部侍郎・度支江淮転運使を歴任。
  • 帝の病中、宦官李輔国と縁戚関係を結び、京兆尹の推挙を経て同中書門下平章事に至った。代宗即位後も李輔国の後援でさらに重用され、天下の銭穀を劉晏に委ねる一方、天下元帥行軍司馬を判じた。李輔国暗殺には陰で関与したとされる。宦官董秀を金で買収して機密を得て帝の意向を先回りし信任を得た。魚朝恩の専横に対しては帝と結んで誅殺を図り成功させたが、その後ますます驕慢になった。文武官の功状審査を簡略化し権限を自らに集めようとし、また王縉と共謀して河中を「中都」とする遷都構想を進めたが帝がこれを不快に思い立ち消えになった。
  • 大暦8年(773年)、吐蕃の邠寧侵攻を機に、西州での知見をもとに原州の要害化を献策した(原州の防衛拠点化、涇州軍の後方支援化など)。田神功の反対もあり実現には至らなかった。
  • 権勢を極める中、主書卓英倩・李待栄らを外部の窓口とし、妻子・子弟を通じた賄賂の横行が甚だしかった。城中に二つの豪邸を構え、名花美妓は禁中にも劣らぬほどであった。帝はその実態を知りつつ独り諭したが改まらず、李少良の告発を逆に処刑してこれを封じた。
  • 大暦12年(777年)3月庚辰、帝は延英殿で吳湊を遣わして元載・王縉を捕らえさせ、親吏・諸子も一斉に投獄した。劉晏・李涵らによる取り調べで罪状が明らかになり、賜死。妻王氏と子の伯和・仲武・季能も共に死を賜り、祖父・父の墓は暴かれ棺を斬り屍を捨てられ、私廟の位牌と邸宅は破却された。
  • 妻王氏(河西節度使王忠嗣の娘)は驕慢で子らも聚斂に走り、死しても哀悼する者はなかった。籍没された財産には鐘乳五百両、胡椒八百石などがあった。出家していた娘は掖庭に没収され、徳宗代になってようやく父の死を告げられ号泣した。
  • 徳宗(太子時代)が用いた議論の縁もあり、興元元年(784年)官位が回復され改葬が許された。諡は当初「荒」とされたが後に「成縦」と改められた。元載に連座して処刑された者、貶謫された者(楊炎・王昂・宋晦ほか数十百人)は多数に及んだ。
  • 卓英倩の弟卓英璘は金州で郷里を制する豪族と化していたが、元載誅殺後に武庫を奪い反乱を起こし、刺史孫道平に討伐された。

附 李少良――生涯

  • 李少良は殿中侍御史を歴任後、元載の不法を憤り上疏したが、その友韋頌の漏言により元載に露見し、御史台で処刑された。当時、晋州の男子郇謨が竹笥と葦席を携え「三十字」の意見書を献じようとした逸話も併記される(団練使・監軍の廃止を求める内容)。