生涯
- 崔寧は貝州安平の出、のち衛州に移った。儒家の出ながら縦横の学を好み、劍南で鮮于仲通に仕え、李宓の雲南討伐にも従軍。崔論に見出され裴冕・崔円の幕府で仕えた。裴冕の讒言事件では冤罪を弁明し名を上げた。利州刺史として山賊を鎮め、厳武の劍南節度使就任に随行するため巧みに張献誠を説得した逸話がある。漢州刺史として吐蕃討伐で地道戦術を用い柘・静等州を奪還、「神兵」と恐れられた。
- 永泰元年(765年)厳武没後、後任人事を巡る混乱の中、崔寧は郭英乂に敵視され、家族を襲われた末に反撃し英乂軍を破って自立、成都を制圧した。劍南は大いに乱れたが、代宗は杜鴻漸を派遣して和解を図らせ、鴻漸は事実上の統治を崔寧に委ねた。大暦3年(768年)来朝、「旰」から「寧」と改名を賜る。楊子琳の成都襲撃をしのぎ、蜀の富を頼みに苛斂を行い、弟崔寛を通じて元載父子と結び権勢を強めた。
- 大暦14年(779年)、検校司空・同中書門下平章事。御史大夫の人事を巡り宰相楊炎と対立。南蛮・吐蕃の連合侵攻を機に楊炎は帝に「崔寧を蜀に戻さず、朔方に転任させて権力を削るべき」と献策し実現、崔寧は靈州大都督・朔方節度使等に左遷され各地に監視の留後を配された。
- 朱泚の乱で徳宗を追って奉天に至ったが、盧杞の讒言(賊との内通の嫌疑)により宦官に絞殺された、61歳。陸贄が真相を追求しようとしたが証拠は隠滅され、天下はその死を冤罪と見た。のち韓潭の上奏で名誉回復。楊子琳の成都襲撃時には崔寧の妾任氏が私財を投じて千人の兵を募り城を守った逸話がある。
- 弟の崔密の子崔絵、その四子(崔蠡・崔黯・崔確・崔顔)はいずれも進士に及第。崔蠡は戸部侍郎、平盧・天平軍節度使を歴任。その子崔蕘は陝虢観察使として王仙芝の乱に無策で対応し軍吏に辱められた。崔黯は監察御史として祭祀の不敬を指摘し文宗に評価された。崔確・崔顔はいずれも郎中に至った。