生涯
- 來瑱は邠州永壽の人。父來曜は四鎮節度使として西辺に名を著した。來瑱は若くして名節を尚び、殿中侍御史・伊西北庭行軍司馬を歴任。安禄山の乱で潁川太守・招討使に抜擢され、母の喪で一時免官も孝行で知られた。
- 安禄山反乱後、潁川を賊将畢思琛に攻められたが自ら矢を射て応戦し賊を退け、「來嚼鉄」と恐れられた。山南東道節度使として魯炅の代わりに南陽の防衛に尽力、賊は侵犯できなかった。両京平定後、潁国公に封じられ食邑二百戸を得た。
- 乾元2年(759年)、山南東道節度使として襄州の反乱を鎮定、上元2年(761年)史思明の残党を魯山・汝州で破り首級万を得た。粛宗が彼の兵権を警戒し、行軍司馬裴奰の讒言もあって淮西方面へ転任させ権力を奪おうとしたが、來瑱は留任を図った。
- 代宗即位後、襄州節度使に復したが、密詔を受けた裴奰が兵を率いて攻めてきた。副将薛南陽の計略で明朝を待って迎撃し裴奰を撃破・捕縛した。來瑱は入朝して謝罪し兵部尚書・同中書門下平章事となったが、宦官程元振の讒言と王仲昇の証言により官爵を剥奪され播州尉に左遷、鄠県で賜死、家財は没収された。門下の客は逃げ散ったが校書郎殷亮だけが留まり葬った。のち帝は程元振の誣告を悟り流罪とした。
- 部将龐充が反乱を起こしたが薛南陽・梁崇義に鎮圧され、崇義が後任の節度使となり來瑱の祠を建て祀った。広徳元年(763年)、官爵が回復された。裴奰は輕薄で謀に乏しく、來瑱の死後、藍田で賜死となった。