新唐書卷一百四十二 列傳第六十七 崔祐甫

生涯

  • 崔祐甫は字を貽孫といい、太子賓客孝公崔沔の子。世々礼法の家。進士に及第し壽安尉。安禄山の乱で洛陽陥落時、矢の中を私廟の位牌を背負って逃れた。起居舎人から中書舎人に累進、剛直で妥協しない性格で宰相常袞と幾度も争った。「猫が鼠を養う」という朱泚の献瑞を巡り、袞が祝賀を進めた中で独り「弔うべきで賀すべきでない」と述べた逸話がある。
  • 代宗崩御時の服喪期間を巡り常袞と激しく論争、「群臣の喪は27日とすべき」とする常袞に対し「遺詔に臣・庶人の別はない」と反論した。常袞は激怒して崔祐甫を潮州刺史に左遷しようとしたが、徳宗即位直後の混乱の中、郭子儀・朱泚が事情を知らず署名の食い違いから常袞が「帝を欺いた」として左遷され、崔祐甫は門下侍郎・同中書門下平章事に抜擢された。
  • 元載誅殺後、楊綰が没し常袞が停滞していた官僚登用を、崔祐甫は公正に大量に進めた(1年足らずで約800人)。帝が「卿の推薦には縁故が多いのでは」と問うと「才行を知らずしてどうして推挙できましょうか」と答え、帝は納得した。神策軍使王駕鶴の更迭、淄青李正己の献金への対応など的確な進言で知られた。
  • 病中も中書に輿で運ばれ職務を執り、60歳で薨去、太傅を追贈され諡は文貞(門下侍郎で三師を贈られる先例なきところ特別の恩寵)。朱泚の乱で妻王氏が賊中に陥ったが、旧知の朱泚から贈られた品を封印して献上し、士君子はその家法を重んじた。

裴植(崔祐甫の甥、弟嬰甫の子)――生涯

  • 崔祐甫の弟嬰甫の子である崔植が跡を嗣いだ。崔祐甫の遺言により喪主となる。弘文生から博通経史、『易』に特に通じた。鄭覃と共に補闕を務め、朝廷の得失を疏論して名声を得た。
  • 元和中、給事中として皇甫镈の減俸案・塩酒利益追徴案に反対しこれを阻止した。長慶初、中書侍郎・同中書門下平章事。穆宗の「貞観・開元の治」への問いに、太宗・玄宗の政治を論じ、憲宗への進言も交え「無逸」を範とするよう説いた。
  • 河朔の帰順の機を逃した責任(朱克融の乱を招いたこと)で内心恥じ、刑部尚書、嶽鄂観察使、嶺南節度使、戸部尚書を歴任、華州刺史で終わり尚書左僕射を追贈された。

崔倰――生涯

  • 崔祐甫の従子崔倰は清廉さを誇り贓罪を憎んだ。蘇州刺史として課績第一、湖南観察使として穀物の域外取引禁止を撤廃し商業を活性化した。戸部侍郎・判度支として、田弘正の鎮州転任時の魏兵扶助を拒否し、その結果鎮州の兵乱で田弘正が殺害される一因となった。当時帝の失徳もあり崔倰は罪を問われなかった。鳳翔節度使、河南尹を経て戸部尚書で致仕、諡は肅。

史論

  • 賛にいう。崔植は輔政にあたり、有為の時にあって経国の才を欠き、危機を見誤って虎狼を放つがごとき失策により一日で数千里の地を失い天下の笑いものとなった。崔倰は財を惜しんで賊を利した。両者とも幸いにも誅されなかった。天が河北をもって唐を乱したため、君臣ともに不肖でその謀が誤ったのだ、惜しいことである。