新唐書卷一百四十一 列傳第六十六 鄧景山

生涯

  • 鄧景山は曹州の人。文吏として累進し監察御史に至った。至徳初、青斉節度使、のち淮南節度使に転じ、政治は簡素厳格であった。城門に鼉(わに)が集まった際、部下鄧珽の凶兆の予言通り、宋州刺史劉展が反乱を起こした。
  • 劉展の反意を淮西節度使王仲昇が朝廷に報告したため、揚州長史兼江淮都統に転任させ密かに京師へ召還しようとしたが、劉展はこれを察知して2万の兵で淮水を渡り攻めてきた。鄧景山は敗れて寿州に逃れ、平盧節度副使田神功に討伐を依頼。田神功は揚州で大略奪を行い(大食・波斯の商人数千人が殺害された)、乱は3か月で平定された。鄧景山は尚書左丞に召還され、崔円がその後任となった。
  • のち太原尹となり、南陽郡公に封じられた。清廉倹約で知られ、子弟の食事も質素、備蓄の腐った粟を食べる姿勢が兵に反感を買った。裨校の処罰を巡って部下の怒りを招き、少将黄抱節の反乱で宝応元年(762年)に殺害された。粛宗は彼の統馭の失を問わず軍を慰撫し、辛雲京を後任の節度使とした。劉晏と親交があり、その死後遺族の面倒を見た。諡は敬。