新唐書卷一百三十九 列傳第六十四 房琯

陳涛斜の敗戦と浮誇の宰相

  • 房琯、字は次律、河南河南の人。父融は武后代に正諫大夫同鳳閣鸞台平章事も神龍元年に貶死。琯は陸渾山に10年隠遁、『封禅書』で張説に見出され校書郎。県令科に及第、盧氏令として善政を挙げた。
  • 天宝5載、給事中。華清宮の経営に手腕を発揮するが李適之・韋堅への連座で宜春太守に左遷、諸郡を歴任。玄宗の蜀行幸に馳せ参じ文部尚書同中書門下平章事。
  • 粛宗に冊書を届け重用され、機務を委ねられるが、江淮租庸使第五琦の重用に反対(「一人の楊国忠が死んで一人の国忠が生まれるようなもの」)し帝と対立。賀蘭進明の讒言(諸王への節度授与を陛下への忠でないと批判)で帝の信頼を失い始める。
  • 自ら賊討伐を志願、王思禮・鄧景山らを副将に三軍で長安に迫るが陳涛斜で春秋の戦法(牛車の陣)を用いるも風向きの変化で大敗、4万を失う大惨事となった。粛宗の下に戻り肉袒して謝罪、なお重用は続いたが、儒生の佐官(李揖・劉秩ら)を重んじ「彼らの曳落河(安禄山の精鋭)が我が劉秩に敵うものか」と大言する自負が強く、次第に帝の不興を買った。
  • 崔円の重用や琴工董庭蘭の縁故問題を機に太子少師に左遷。邠州刺史として軍政の乱れを是正し評判を回復するが、なお浮誇との評は消えず、晋・漢二州刺史を経て刑部尚書、赴任途上で没、贈太尉。老荘・仏教を好み高談に長けるが実務には疎かった人物として描かれる。

房琯についての史論

  • 賛にいう、唐代の名儒の多くが琯の徳器を王佐の才と称えたが、史書の記す行状にはやや貶すべき点もある。一度の敗戦以降振るわず、忠誼から片言で帝の心を動かし宰相に至った点は人に優れるものがあったが、用いる所を誤り成功に至らなかった。盛名の下では責望が重く、実が伴わなければ非難も深い。太平の世であれば名宰相たり得ただろうが、倉卒の国難に遭い事は破れ隙が生じ、浮虚と比周の罪に陥った。名声がかえって累となった一例として戒めとすべきである。

房琯の子・孺復

  • 幼くして文才あるも狂縦で法度に従わなかった。術者に「30歳で宰相になる」と言わせ権門に取り入ろうとした。兄宗偃の喪に際し弔問しない薄情さ、妻鄭氏との不和・死別、後妻崔氏との確執(侍女殺害事件)など私生活は乱れた。容州刺史で終わった。

房琯の孫・啟

  • 王叔文に取り入り容管経略使として荊南帥節を約束されるが叔文の失脚で頓挫。桂管観察使として詔の使者を欺こうとした不正が発覚し、賄賂の徴収も暴かれ虔州長史に左遷され死んだ。この事件を機に五管・福建・黔中道での賄賂・交易の禁止が定められた。

房琯の族孫・式

  • 進士及第、韋皋の蜀州刺史などを歴任。劉辟の反乱時に留め置かれるが乱後に高崇文に評価され吏部郎中。河朔諸将の調停で成果を挙げ陝虢観察使、河南尹。王承宗討伐の負担軽減を建言し民を安んじた。宣歙観察使で没。謚を巡り劉辟との過去の関わりが議論となったが、最終的に定まった。