新唐書卷一百三十五 列傳第六十 封常清

義に篤い忠臣

  • 封常清、蒲州猗氏の人。孤貧の身で学問を修め、高仙芝の従者に何度断られても食い下がって採用された逸話が伝わる(「容貌で人を判断すれば子羽を見誤る」)。
  • 達奚部討伐で詳細な報告文を密かに作成し仙芝を驚かせ、以後重用される。仙芝の乳母子鄭徳詮の不敬を厳罰に処すなど軍紀を厳正に保つ気骨を示した。安西副都護・北庭都護・伊西節度使を歴任、質素倹約で知られた。
  • 安禄山の乱で范陽節度副大使として東討を志願、6万の兵を募るが実戦経験に乏しく、河陽橋を断ち防衛するも滎陽陥落後、洛陽での連戦連敗、潼関への撤退を高仙芝に進言し受け入れられた。
  • 敗戦の責任を問われ官を削られ白衣で仙芝軍に従うが、辺令誠の詔書により処刑された。死に際し「国家の節を汚さぬための遅疑だったが、今こそ死は本望」と述べ、渭南から潼関への道中での上表文(討賊策の建言)を令誠に託して死んだ。

  • 賛にいう、安禄山は百戦錬磨の驍勇を集め、天下が久しく戦を忘れていた隙、そして主君の老いを衝いて反乱を起こし、人心は崩壊した。封常清は市井の民数万を率いて賊の鋭鋒に当たり、一敗しただけで爵位を奪われた。天子への上奏も三度届かず斬られた。高仙芝も陝を捨て関を守って賊の西進を阻んだにもかかわらず地を失った罪で誅された。玄宗もまた側近の欺瞞に目を曇らされたとはいえ、判断の誤りは甚だしい。ついに叛将(哥舒翰)に降伏の口実を与えることになった。天がその悪をもって四海を乱し民を害さしめたのでなければ、この二将がどうして誅されねばならなかったのか。