潼関で散った勇将
- 哥舒翰、突騎施酋長哥舒部の裔。父道元は安西都護将軍。放蕩な青年期を経て40余歳で父の喪を機に河西に赴き王倕、王忠嗣に仕えて頭角を現す。『左氏春秋』『漢書』に通じ財を惜しまず士心を得た。忠嗣配下の副将を無礼を理由に即座に斬るなど苛烈な一面もあった。
- 苦抜海の戦いで吐蕃を撃退し名を挙げ、隴右節度副使・河源軍使。積石軍での伏兵戦、河に落ちた際の危機一髪の脱出、槍の名手としての武勇(奴左車との連携)など数々の武勇伝を残した。
- 王忠嗣が讒言で罪に問われた際、帝の前で叩頭・落涙して弁護し忠嗣を救った。神威軍・応龍城の築城、青海周辺の統治を進め、天宝8載、石堡城攻略(将を処罰しての督戦)で開府儀同三司まで昇進。
- 安禄山・安思順との不和は玄宗が調停に努めたが、「狐は穴に向かって吠えるのは不吉」との皮肉の応酬で決裂寸前となった逸話が伝わる。涼国公・河西節度使として吐蕃の洪済・大莫門等城を攻略し黄河九曲を奪還、西平郡王。楊国忠の要請で厚遇されるも風痺により事実上引退状態となる。
- 安禄山の乱勃発後、太子先鋒兵馬元帥として20万を率い潼関を守る。軍の指揮系統が乱れる中、安思順を賊書偽造により誅殺させた。楊国忠の猜疑を招き、部下の勧めで君側粛清の陰謀もささやかれたが決断できず、逆に国忠の防衛策で緊張が高まった。
- 慎重論(堅守すべし)を主張したが国忠の圧力で出撃を強いられ、霊宝西原で崔乾祐の伏兵に大敗(火計と地形の罠にはまり自滅的な混乱で大損害)。潼関に戻るも部下の火抜帰仁に捕縛され安禄山に投降、諸将への降伏勧告文を書くも諸将は従わず、安慶緒により最終的に殺害された。贈太尉・謚武湣。
哥舒翰の子・曜
- 8歳で玄宗に謁見し尚輦奉御。李光弼の河北討伐に従い鴻臚卿・副将。周晃討伐の東都・汝州行営節度使として汝州を回復するが、襄城での李希烈との対陣で苦戦、援軍の混乱もあり退勢。京師の変で洛陽に走り、母の喪を機に東都畿・汝節度使、河南尹となるが統率力に欠け部将の反乱に遭う。右驍衛上将軍で終わる。