新唐書卷一百三十四 列傳第五十九 王鉷

財利で寵を得て族滅した権臣

  • 王鉷、中書舎人王晋の庶子。監察御史から戸部郎中、酷薄な取締りで玄宗に才を認められ和市・戸口色役使等を歴任、御史中丞・京畿関内采訪黜陟使。
  • 李林甫の東宮攻撃に協力し峻烈な取締りで多くを陥れ、租庸の輸送費転嫁など重税を課し民を疲弊させる一方、帝の私財として莫大な献金を続け寵遇を厚くした。二十余の使職を兼ね、権勢は李林甫に次ぐほどであった。
  • 子準の驕慢な逸話、弟銲との複雑な確執(術士との不軌な会話を隠蔽するため殺害)、王府司馬子韋会の殺害隠蔽など専横ぶりが伝わる。
  • 天宝11載、弟銲が邢縡の反乱計画に連座した際、鉷は事件の処理を怠り疑われる。楊国忠の讒言にも帝は当初信じなかったが、陳希烈の追及と裴冕の弾劾で銲は杖死、鉷も三衛の厨で死を賜った。一族は誅殺・流罪となり、屋敷の華美な調度(「自雨亭」)が没収に数日を要したという。

盧鉉――保身に長けた酷吏

  • 盧鉉、韋堅の判官から李林甫に取り入り、張瑄・楊慎矜を陥れる密告に加担、王鉷の失脚時には裏切って貶められた。日和見的な処世で人々に嫌われた。

  • 賛にいう、開元中、宇文融が財利の言で寵を得たのは、天子が海内治平を見て四夷討伐の意を持ち隠戸・剰田の摘発で軍資を賄おうとしたことに乗じたものであった。天宝以降、外は軍興、内は寵妃に費やされ、韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠が次々に苛斂で進み、民を絞り取って上に貢いだが、天下の経費は改善されず、流亡はかえって増した。彼らが用いられた末に権力争いで互いに滅ぼし合い、四族とも覆り天下の笑いものとなった。民は安んずべきで擾すべきでなく、利は通ずべきで竭くすべきでない。孟子の「上下利を争えば国危うし」との言葉の通りである。鉷・国忠は後発ながら最も横暴を極め、天下は改めて融を懐かしんだという。