新唐書卷一百三十三 列傳第五十八 王忠嗣

信頼を集めた名将

  • 王忠嗣、華州鄭の人。父海賓は吐蕃討伐の先鋒として戦死、玄宗に憐れまれ養育された。玄宗に「後日の良将」と評され、信安王祎・蕭嵩の下で武功を重ねた。
  • 河西の郁標川で少数精鋭を率い数千を斬るなど武勇に優れたが、皇甫惟明との対立で東陽府左果毅に左遷、河西節度使杜希望の下で復権。同新城での奇跡的な単騎救援劇も伝わる。朔方節度使、河東節度使を歴任し、天宝初、突厥の内紛に乗じ烏蘇米施可汗を討ち大同・静辺の二城を築くなど北辺を安定させた。
  • 「平世の将は民を撫することを第一とし、武功を焦らない」との持論で訓練・防備を重視、士卒に慕われた。河西・隴右節度使も兼ね四鎮の印を佩び権勢絶大となったが自ら朔方・河東の節度を返上した。
  • 石堡城攻略を巡り李林甫の讒言(太子擁立への疑惑)で漢陽太守に左遷、哥舒翰が官爵を賭して救い一命を取り留めるも享年45で没。石堡城攻略が甚大な犠牲を出した史実が、忠嗣の慎重論の正しさを裏付けたとされる。

王忠嗣についての史論

  • 賛にいう、忠嗣の才は戦えば必ず破り攻めれば必ず克つほどであり、石堡城攻略の損得計算、馬価を高くして敵の馬資源を涸らす策、安禄山の乱の兆しを見抜いた深謀は特筆に値する。しかし讒言から逃れられず流謫の地で没した。忠賢の士が国家への謀に長けても自身の保身に拙いのは古来の通例であり、痛惜の念に堪えない。