新唐書卷一百三十二 列傳第五十七 吳兢

『貞観政要』の編者

  • 呉兢、汴州浚儀の人。魏元忠・朱敬則に推挙され史館で国史編纂。神龍中、右補闕として節湣太子事件後の相王(睿宗)への嫌疑を「宗室を粛清すれば国が滅ぶ」と秦・漢・晋・隋の先例を引いて諫止する長文の上疏を行った。
  • 玄宗が果断な決裁を進める中、上疏して「上書者が優遇されず処罰されるようでは諫言の道が塞がる」と忠諫の重要性を説き、堯・禹の故事、隋煬帝の拒諫による滅亡、太宗の納諫による治世を対比して長文で論じた。
  • 母の喪に服し、修史の継続を願い諫議大夫に。睿宗崩御の実録取り寄せで奔走。太子左庶子。
  • 開元13年、太山封禅の際の帝の狩猟を諫止。翌年の大風を機に、権力が下に移る兆しへの警戒を上疏。長安・景龍年間の史官の不実を憂い『唐書』『唐春秋』を私撰、のち集賢院で正式に修史。張説の失脚後も国史編纂を継続、荊州司馬に左遷されても史稿を携行した。
  • 洪州刺史、舒州、恒王傅を歴任。享年80で没。「良史」と称され、簡潔な叙事で知られたが晩年はやや疎漏との評も。張説の讒言に関する記述を巡り、張説から改訂を求められても「実録の名に背く」と拒み続け、「今の董狐」と評された。