新唐書卷一百三十 列傳第五十五 裴漼

霹靂手の父を持つ廉直の相

  • 裴漼、絳州聞喜の著姓。父裴琰之は同州司戸参軍として若くして数百件の未決案件を一日で処理し「霹靂手」と称された。漼は父の病を10余年看病し出仕しなかったが、没後に明経科及第、監察御史。
  • 崔湜・鄭愔の贓罪を按訊した際、安楽公主・上官昭容の圧力にも屈せず正罪とし称賛された。中書舎人として睿宗の金仙・玉真二観造営の農繁期の役使を諫止。兵部侍郎・吏部侍郎(甄抜に優れる)を経て御史大夫。
  • 張説に親しく推挙され吏部尚書。晩年は妓妾を蓄える奢侈が議論を呼んだ。太子賓客で没、礼部尚書・謚懿。従祖弟に寛。

裴漼の従祖弟・寛

  • 通敏で騎射・弾棋・投壺に長ける。潤州参軍事時代、刺史韋詵の花婿選びの逸話(贈り物を埋めた廉直さが認められ娘を娶る)で知られる。
  • 河南丞、長安尉、宇文融の江東覆田判官、太常博士(廟の忌日の楽の扱いを議論)を歴任。刑部員外郎として王毛仲の獄への圧力に屈せず。蒲州刺史として旱魃を鎮め、河南尹として権貴に屈せぬ善政、太原尹、范陽節度使として夷夏の信頼を得た。
  • 天宝3載、戸部尚書兼御史大夫。裴敦復の海賊討伐の功簿を暴いたことなどから李林甫の讒言に遭い睢陽太守に左遷、韋堅の獄にも連座し安陸別駕に。羅希奭の脅しにも動じず、のち東海太守・馮翊太守・礼部尚書を歴任し没、享年75、太子太傅を贈られた。仏教に傾倒した。子は谞。

寛の子・谞

  • 明経科及第、河南参軍事。母の喪に服し東都に居た際、史思明の乱で山中に逃れるが、思明が寛の旧恩から谞を捕えて厚遇し御史中丞を偽授した。宗室の残殺を陰で緩め数百人を救い、賊の虚実を朝廷に密告し発覚して恨まれるも死を免れた。
  • 賊平定後、太子中允、考功郎中を経て代宗の陝州行幸に単身赴き信頼を得る。榷酤の利について「農民の困窮を先に案じるべき」と孟子を引いて諫言し帝に感銘を与えた。左司郎中、元載に忌まれ虔州・饒州・廬州・亳州刺史等を歴任。
  • 徳宗代、郭子儀の家奴の不法を摘発し「強権に恃らぬ姿勢を示すため」と説明した逸話が伝わる。三司による濫訴を批判し朝堂への直訴を有司に戻させた。太子右庶子、兵部侍郎、河南尹兼東都副留守。5代にわたり河南に仕えた家系で、寛厚な政治を貫いた。享年75で没、礼部尚書を贈られた。

寛の弟の子・胄

  • 字は胤叔、明経科及第、李抱玉の鳳翔幕府佐官。のち陳少遊に従い抱玉の怒りを買い桐廬尉に左遷。李棲筠の浙西観察で支使に抜擢される。
  • 元載の専横を憎む代宗が李棲筠を御史大夫に召した際、殿中侍御史として引かれ元載に憎まれた。棲筠没後も動じず、淮南観察判官、元載誅後に刑部員外郎・宣州刺史。楊炎の報復人事で汀州司馬に左遷されるが、江西観察使・荊南節度使を歴任、賓客への待遇に節度があり質素だった。享年75で没、尚書右僕射・謚成。