剛直な諫言官
- 嚴挺之、名は浚、字で通用、華州華陰の人。姚崇に才を認められ右拾遺。睿宗の元宵灯会・酺宴の乱費を「五不可」の理由で諫止し容れられた。
- 侍御史任正名の不敬を咎めて逆に劾され左遷。開元中、考功員外郎・給事中を歴任、杜暹・李元紘の派閥抗争に巻き込まれ「宋遙は小人」と直言し登州刺史に左遷。
- 太原少尹として王毛仲の兵権拡張を密かに帝に警告、毛仲失脚後に評価され刑部侍郎・太府卿。張九齢に尚書左丞に抜擢され、蕭炅の無学(「伏臘」を「伏猟」と誤読)を暴き岐州刺史に転出させ李林甫に恨まれた。
- 王元琰への関与を李林甫に利用され洺州刺史・絳州刺史に左遷。天宝初、林甫の策略で称病帰京の誘いに乗り員外詹事に留め置かれ鬱憤のうちに自ら墓誌を作り没した。交遊を重んじ孤女の縁組を世話する一方、仏教に傾倒した点は君子に偏りと見られた。
嚴挺之の子・武
- 字は季鷹、幼くして豪爽。母の不遇を憤り妾を鉄槌で殺した逸話が伝わる(「大臣が妾を厚くし妻を薄くするのは許せない」)。玄宗の蜀行幸に従い諫議大夫、粛宗代に給事中・京兆少尹・巴州刺史・東川節度使・成都尹兼剣南節度使・京兆尹・黄門侍郎・剣南節度使を歴任、当狗城で吐蕃を破り塩川を接収。
- 蜀での治政は放埓で浪費が甚だしく、梓州刺史章彜を私憤で殺害するなど問題も多かったが、虜は境を犯さなかった。杜甫を厚遇しつつ殺そうとした逸話、李白『蜀道難』が武を危惧して作られたとの伝聞がある。永泰初、享年40で没、母は「これで官の婢たることを免れた」と嘆いた。尚書左僕射を贈られた。
嚴挺之の従孫・綬
- 父綬(丹の子)は劍南の使を武の在任を理由に固辞。綬は進士及第、劉贊の後を継いで宣歙団練使代行、庫物を献上し刑部員外郎に。
- 河東節度使鄭儋の没後、河東司馬から検校工部尚書として代行節度使に。楊恵琳・劉辟の反乱に際し討伐を建言、9年在鎮し寛恵な政治で流聞された。尚書右僕射に。
- 名門の出で吏事に長けるが功名心が強く、御史に賜物拝受を弾劾されるなど物議も。荊南節度使として漵州蛮張伯靖の乱を平定、山南東道節度使兼淮西招撫使として呉元済討伐に消極的で裴度に非将才と評され召還、少傅で没、享年77、太保を贈られた。
- 権勢に頼る一面(李達への意趣返しの逸話)もあった。3鎮を歴任し辟召した部下から将相9人を輩出。
綬の子・澈
- 河東の李進賢(綬の腹心)が振武節度使となった際に判官として辟召されたが治世が苛刻で軍中の怨みを買い、回鶻討伐の失敗を機に進賢が兵変に遭った際、澈は殺害され進賢一家も屠られた。夏綏銀節度使張煦の討伐で乱は鎮圧された。