礼制論争の第一人者
- 崔沔、字は善沖、京兆長安の人。北周隴州刺史崔士約の4世孫。純謹孝行で才ある文章家。賢良方正科に第一で及第、左補闕。舒緩な性格で正論を曲げなかった。睿宗に中書舎人に召されるが母の病を理由に固辞し侍養、代わりに人材を推挙。
- 御史中丞として太倉の粟の放出・苑囿の減省を建言。監察御史宋宣遠や姚崇の子彜の不正を弾劾しようとしたが、姚崇・盧懐慎に史才を理由に著作郎へ転じさせられ実質更迭された。太子左庶子を経て母の喪に服し、中書侍郎に累進。
- 仙州廃止に反対し樊州設置を求めるも却下、宰相の職掌についての持論を貫き張説に疎まれ魏州刺史に左遷、水害への便宜措置を講じた。召還後、吏部十銓・秘書監・太子賓客を歴任。
宗廟籩豆・喪服制度の議論
- 太常卿韋縚が宗廟の籩豆を12に増やし、外祖父・舅の喪服を重くする案を提出した際、崔沔は「祭祀の器物は時代の実情に応じて簡便化されてきたもので、増やすことが敬意を尽くすことではない」と詳細に論駁(古礼の変遷、魯の丹桓宮の楹の故事などを引用)。
- 爵の大きさや服喪制度についても、家の秩序(父を尊び母を降格する)を根拠に議論し、韋述・陽伯成・楊仲昌・劉秩らも沔の説に同調、朝廷は籩豆を各6、外祖・舅の服喪を軽減する形で決着した。
- 享年67で没、礼部尚書を贈られ謚孝。倹約を旨とし禄を宗族に分配、自宅は質素で『陋室銘』を著した。子祐甫は宰相まで昇進(別伝)。