経歴と高宗末期
- 裴炎は字を子隆といい、絳州聞喜の人。寛厚で口数少なく、際立った節操があった。弘文生に補せられ、休暇中も他の生徒が遊びに出ても読書を怠らなかった。推薦を受ける資格がありながら学業未完成を理由に固辞し、十年間勤めて特に『左氏春秋』に通じた。明経に及第し、濮州司倉参軍、御史、起居舎人を歴任し、黄門侍郎に昇進した。調露二年(680年)、同中書門下三品となり、のち侍中に進んだ。高宗が東都に行幸した際、皇太子(のちの中宗)を長安に留め、裴炎に補佐させた。高宗の病が篤くなると太子が監国し、裴炎は劉斉賢・郭正一とともに東宮で政務を平章せよとの詔を受け、高宗崩御にあたり遺詔を受けて太子を輔佐した。これが中宗である。中書令に改められた。旧来、宰相の議事は門下省(政事堂)で行われ、長孫無忌は司空、房玄齢は僕射、魏徴は太子太師としてそれぞれ門下省事を知ったが、裴炎に至り中書令として政事筆を執ったため、政事堂を中書省に移した。
中宗廃位と武后への協力
- 中宗が皇后の父韋玄貞を侍中に、乳母の子に五品官を授けようとしたところ、裴炎が固く拒んだため、中宗は怒って「天下を韋玄貞に譲ってもよいと思っているのに、侍中の位を惜しむのか」と言った。裴炎はこれを恐れ、武后と謀って中宗の廃位を図った。武后は裴炎・劉禕之に命じ、羽林将軍程務挺・張虔勗らを率いて宮中に入らせ、太后の令を宣して中宗を殿から引き下ろした。中宗は「私に何の罪があるのか」と言ったが、武后は「天下を韋玄貞に与えようとしたこと自体が罪である」と答え、中宗を廃して盧陵王とし、豫王(睿宗)を新帝に立てた。裴炎は廃立の功により永清県男に封ぜられた。
武后との対立と誅殺
- 武后が政権を握ると次第に専横になり、武承嗣は七廟を立てて先祖を追王するよう請うた。裴炎は「太后は天下の母として盛徳をもって臨朝すべきで、祖先を追王して私を示すべきではない。呂后の先例を見ないのか」と諫めたが、武后は「呂氏の時とは事情が違う」と反論した。裴炎は「蔓草は図りがたく、はびこれば絶ちがたい」と重ねて諫めたため武后は不機嫌になった。武承嗣はさらに韓王元嘉・魯王霊夔の誅殺を勧め、劉禕之・韋仁約は畏れて黙したが、裴炎だけは強く争い、武后はますます怒りを深めた。まもなく河東県侯を賜った。
- 豫王は帝位にあっても実権を持たなかった。裴炎は武后が龍門に出遊する隙に兵で捕らえ政権を天子に返そうと謀ったが、長雨のため出遊が中止となり果たせなかった。徐敬業の挙兵に対し武后が討伐を議したとき、裴炎は「天子はすでに成人しているのに親政できないため賊に口実を与えている。今政権を子に返せば、賊は討たずとも解体する」と述べたが、御史崔詧は「裴炎は顧命を受け大権を握りながら乱を聞いて討伐を請わず太后に帰政を求めるのは、異図があるのだ」と讒言した。武后は裴炎を捕らえて詔獄に送り、御史大夫騫味道・御史魚承曄に糾問させた。鳳閣侍郎胡元範や納言劉斉賢、左衛率蔣儼が裴炎の無実を弁じたが、武后は「炎に謀反の兆しがある、卿らは知らぬだけだ」と退けず、都亭駅で斬った。
- 裴炎は弾劾されたとき、言葉を和らげるよう勧める者もいたが、「宰相が獄に下されて助かる道理はない」と節を曲げず、家財を没収されたが蓄えは全くなかった。かつて裴行倹が突厥を破った功を裴炎が妬み、投降した阿史那伏念ら五十余人を斬らせたことがあり、識者はその冒功と、国家が四夷への信を失ったことを恨み、それが陰禍の因となったと評した。睿宗の即位後、太尉・益州大都督を追贈され、諡は忠とされた。
附伝 裴炎従子 伷先
- 裴炎の甥の伷先は、成人前に恩蔭で太僕丞となった。裴炎の死に連座して嶺南に流された。変事を上変しようと直接陳述を求めて武后に召見されると、武后は威圧的に「裴炎は謀反の罪で誅されて当然だ、まだ何を言うのか」と迫った。伷先は「陛下は唐家の嫁として先帝の遺命を受けた身。今臨朝しても大臣に責任を委ね、東宮が徳を成すのを待って政権を返すべきなのに、なぜ諸武を王とし宗室を排斥するのか。裴炎は唐の忠臣なのに子孫まで戮せられ、天下が憤っている。陛下は太子を東宮に戻し諸武の権を罷めるべきだ。さもなくば豪傑が時に乗じて動く」と直言した。武后は怒り、朝堂で杖打たせ、瀼州へ長期流罪とした。
- 一年余りして逃亡したが捕らえられ、北庭に流された。以後は名節を顧みず専ら財を蓄え、五年で数千万に達した。降胡の女を娶り、妻は黄金・駿馬・牛羊を持ち、財力で名を馳せた。数百人の食客を養い、北庭から京師まで多くの伝手を通じて朝廷の情報を得、十のうち七、八を知った。時に補闕李秦授が武后に「讖に『武に代わる者は劉』とある。強姓の劉氏がいないなら流人の中にいるのではないか。今流されている大臣は数万族に及び、乱を醸す恐れがある」と進言し、武后はこれを是として李秦授を考功員外郎に抜擢し、使者を各地に派遣、表向きは慰撫としつつ実は流人殺害を命じた。伷先はこれを事前に察知し、駱駝に金幣と賓客を載せて突厥に逃げようとしたが、都護が兵を派して追い、格闘の末捕らえられ、獄に繋がれて上奏された。折しも武后は流人がすでに誅殺されたと判断していたが、天下の非難を恐れ、改めて使者を十道に派遣して慰撫し、「先の使者は慰安の趣旨を誤解し擅に誅殺した、深く自らを咎める。生存する流人は一切帰還させる」と自ら弁明した。これにより伷先は死を免れた。
- 中宗の復位後、裴炎の後継として太子詹事丞を授けられた。秦・桂・広三州都督を歴任。連座して誅されそうになったが宰相張説の助けで免官にとどまった。のち范陽節度使に抜擢され、太原・京兆尹を歴任。京師の官が冗多であるとして畿県の員外官・試官の廃止を上奏した。工部尚書に進み、86歳で東京留守として翼城県公に累封され、任地で没した。