文才と関市論
- 斉州全節の人。宮門丞・崇文館学士から中宗の東宮侍読となる。武后の嵩山巡幸に際し銘文で称賛され、封禅記念碑文も任された。
- 鳳閣舎人として関市への課税一律化に反対する上疏を行い、「関市への課税は古来の制度に反し、細民の生業を奪い乱の元となる」と論じ、武后はこれを容れた。
- 張易之兄弟に文学の士として近づいたため誅殺後に袁州刺史に左遷。国子司業として『武后実録』編纂に携わり清河県子。文章に優れ『洛出宝図頌』『武后哀冊』などの著述で知られ、54歳で没し衛州刺史・諡文を贈られた。
曾孫 從
- 曾孫の從(字子乂)は貧窮の中で学問を修め、進士に及第。剣南節度使韋皋の下で判官を務め、劉辟の乱を書状で諭止し籠城戦を戦った。
- 御史中丞・尚書右丞・山南西道節度使などを歴任。王承宗の入侍交渉を単使で成功させた手腕(軍を伴わず十数騎で赴き、宣詔で承宗を屈服させた)が知られる。淮南節度使として重税を廃し、72歳で没し司空・諡貞を贈られた。清廉で権利を好まず、内に妓楽を置かない質素な人柄が伝わる。
曾孫 能
- 從の族弟にあたる能(字子才)は渾瑊の幕府から侍御史を経て嶺南節度使に至り、68歳で没し礼部尚書を贈られた。
能從子 慎由
- 能の従子慎由(字敬止)は翰林学士から工部尚書・同中書門下平章事に至るが、皇太子擁立問題で宣宗の意に逆らい大中十二(858年)年に左遷された。河中節度使などを経て諡は貞。
能從子 安潛
- 能の従子安潛(字進之)は忠武節度使として黄巣の乱の前身にあたる王仙芝の乱を防ぎ、宋州救援で戦功を挙げた。西川節度使として高駢配下の不正官吏を粛正したが、盧携の讒言で左遷。平盧節度使などを歴任し諡は貞孝。
能子 彥曾
- 能の子彦曾は徐州観察使として龐勛の乱の原因(戍卒の交代延期)に直面し、剛猛な統治が反発を招いた。徐州陥落の際、彦曾は「方伯として死ぬのみ」と籠城を貫くが捕らえられ殺害された。屋敷の怪異譚(水が血に変わる等)も付記される。