新唐書卷一百十三 列傳第三十八 張文瓘

大理卿の名判官

  • 貝州武城の人。李勣に「今の管仲・蕭何」と評されるほどの才を認められた。乾封二(667年)年、東台侍郎・同東西台三品として李勣と共に宰相となる。
  • 高宗の宮殿造営・四夷討伐による国費の浪費を諫め、廄馬数千頭を削減させた。大理卿として旬日のうちに四百件の疑獄を裁き、囚人が皆その公正を慕った(左遷の噂に泣いた逸話)。
  • 新羅・吐蕃への二正面出兵を諫めて休兵を進言。侍中として堂饌(宰相への供応)の削減提案を「これは天子が枢務と賢才を重んじる証、辞退すべきでない」と退けた。73歳で没し幽州都督・諡懿を贈られ、恭陵(孝敬皇帝陵)への陪葬を許された。
  • 四子(潜・沛・洽・涉)が皆三品に至り「万石張家」と称された。

文瓘兄 文琮

  • 兄の文琮は筆写を好み、亳州刺史として『文皇帝頌』を著し戸部侍郎に至った。建州刺史として淫祀の風習を改め、社稷祭祀を興した。

文瓘子 錫

  • 子の錫は鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事として廬陵王の召還を求め、選挙不正で流罪となるも泰然とした態度で知られた(席地で粗食の蘇味道と対比される)。神龍中、工部尚書兼修国史・東都留守を歴任。

文琮從父弟 文收

  • 文琮の従父弟文収は太子率更令として音律に通じ『新楽書』十余篇を著した。