寛厳の折衷
- 京兆長安の人、周内史瑾の孫。隠太子(李建成)に仕えたが、太子廃立後に万泉丞に左遷。軽罪の囚人を農繁期に一時帰宅させ、期日通りに戻らせた信義の逸話が伝わる。
- 侍御史として大夫韋挺の朝儀違反を江夏王李道宗にも臆せず指摘した逸話、交州での冤獄三千人を釈放した実績が知られる。
- 大理卿として高宗の下問に「刻すれば人が残り、寛にすれば有罪を逸する。ただ折中を旨とする」と答え、自ら「形は死灰の如く、心は鉄石の如し」と評した公正さで知られた。
- 永徽元(650年)年、御史大夫。蕭齢之の受贓死罪をめぐり「議親・議貴」の律の趣旨を説いて減刑させた。吏部尚書に至るが武后に疑われ免官、潮州刺史で60歳で没した。倹約寡欲で妻子に対しても常に威儀を正した人柄が伝わる。
臨兄 皎
- 兄の皎は秦王府記室として太宗に従い、吏部侍郎として選挙の時期を定める法を作った。益州長史・太常卿を贈られた。
臨子 之奇
- 子の之奇は給事中として章懷太子の獄に連座し辺境に流された。後に括蒼令として徐敬業の挙兵に加わり誅殺された。
臨孫 紹
- 孫の紹は太常博士・左台侍御史として、韋后が妃・公主の葬儀に鼓吹(軍楽)を用いることを認めた詔に対し、鼓吹は本来軍功に用いるものであり婦人の葬儀には不適切と諫言。中宗の郊祀での皇后亜献にも反対し、武氏陵墓の守戸増設・厚葬の風潮も批判した。先天二(713年)年、玄宗の講武で軍容の乱れを理由に処刑された(金吾将軍李邈の性急な処断によるもので、後に玄宗も悔いたと伝える)。