韋后亜献論の是非
- 京兆始平の人。父綝は経学者。欽明自身も明経に及第し東台典儀から太子率更令、中宗の侍読を務め礼部尚書・魯国公。
- 景龍三(709年)年、韋后の意を迎えて「皇后は天地の祭祀を助祭すべし」との議を立てたが、太常博士唐紹・蔣欽緒・彭景直は『周官』の解釈を精査し、皇后の助祭は宗廟に限られ天地祭祀には及ばないと反論した。左僕射韋巨源が欽明の議を後押しし、皇后が亜献となる結果となった。
- 宴席で肥満の体を揺すって『八風舞』を演じ、盧藏用に「これでは『五経』の権威も地に落ちる」と嘆かれた。景雲初、倪若水の弾劾により饒州刺史に左遷され、崇文館学士として没した。
史論
- 贊に曰く、祝欽明は経学を以て中宗を導いた大儒でありながら、詭弁で艶妻(韋后)の郊祀を正当化し、その徳を汚した。少正卯・荘周が世を惑わせたのと同類とされ、天寿を全うできたのは幸運に過ぎないと評された。
山惲――『詩経』を誦す
- 河東の人。国子司業として宴で『鹿鳴』『蟋蟀』を誦し、中書令李嶠に諷諫と見なされ止められた逸話が伝わる。帝はその実直さを称え、後に国子司業に復した。