婺州刺史と睦州の乱
- 貝州武城の人。隋末に李密を頼るが用いられず、河内の黄君漢を説いて帰順させ、司馬として王世充の将高毘を撃退した。功により清丘県公に封ぜられた。
- 太宗の王世充討伐に謀を用い、東都平定後は隰州都督府長史、貞觀初に左司郎中・韓王府長史を歴任。
- 永徽中、婺州刺史として陳碩真の反乱(自ら「文佳皇帝」を称した睦州の女性による乱)を鎮圧。星の兆しを用いて士気を鼓舞し、盾で身を守ろうとする部下を戒める逸話とともに、数百級を斬り万余を降した。
- 経学(章句学)に通じ、高宗の詔で博士と『五経』の義を討論した。武氏立后に賛同し長孫無忌らの誅殺にも関与、蒲州刺史・71歳で没し幽州都督・諡貞を贈られた。武后臨朝後は揚州大都督・実封二百戸を追贈された。
子 神基
- 子の神基は司賓卿・同鳳閣鸞台平章事となるが酷吏に構陥され嶺南に流された。中宗初に大理卿に復した。
神基弟 神慶
- 弟の神慶は萊州刺史から并州長史に抜擢され、旧来東西二城に分かれていた州城を水路をまたいで一体化し防御兵を大幅に削減した。子神基の獄で申理して減死させたが、これに連座し歙州司馬に左遷された。
- 太子右庶子として突厥使者入朝の際の東宮召喚の慎重さを諫言し、司刑卿として張昌宗の獄を扱ったが不徹底として神龍中に欽州に流され没した。後に幽州都督を追贈された。
神慶子 琳
- 神慶の子琳は中書舎人として高仲舒と並び宋璟に重用され、太子少保に至り天寶二(743年)年没した。子の儼は諫議大夫。一族は「三戟崔家」と称される盛家で、玄宗が宰相候補として名を秘して太子に問うた逸話が伝わる(太子は崔琳・盧従願を言い当てた)。