河源の屯田と度量
- 鄭州原武の人。進士に及第、江都尉となり長史盧承業に「台輔の器」と評された。
- 上元初、吐蕃対策の使者として洮河での戦後処理と対吐蕃交渉にあたり、白水澗で八戦八勝を挙げた。
- 天授初、豊州都督として屯田を推進し辺境の兵糧を自給、無転餉の実を挙げた。夏官侍郎・同鳳閣鸞台平章事に進み、河源・積石等の営田大使を兼ねた。
- 「唾面自乾」(人に唾を吐かれても拭わず自然に乾くのを待つ)の逸話で寛容さを示した。狄仁傑を推挙しながらその功を語らず、後に武后から知らされた狄仁傑が「婁公の盛徳、私は及ばぬ」と嘆じた話が伝わる。
- 聖曆三(700年)年、并州長史・天兵軍大総管として突厥に備え、70歳で没した。幽州都督・諡貞を贈られた。恭勤朴忠の将相として30年に及ぶ辺境の要職を務め、郝処俊と並び「婁・郝」と称された。
史論
史論
- 贊に曰く、劉仁軌らは兵を用いて四夷を平定し勇猛比類なかったが、君に仕えては謙抑を尽くした。裴行儉は下に対して寛恕、婁師德は寛厚であり、功名を全うできたのは「勇にして敢えてせず」の徳によるものであろうと評した。