西域経略と突厥平定
- 絳州聞喜の人。父仁基は隋の光禄大夫で王世充のもとで害された。蘇定方に兵法の奥義を伝授された。
- 高宗の武昭儀立后に反対し長孫無忌・褚遂良と密議したため西州都督府長史に左遷。麟德二(665年)年、安西都護として西域諸国を懐柔。吏部侍郎として長名榜・銓注等の選挙制度を創始し「裴馬」(李敬玄と併称)と呼ばれた。
- 儀鳳二(677年)年、波斯王擁立の名目で密かに西征し、莫賀延磧の困難を克服して十姓可汗阿史那都支・李遮匐を計略により生け捕り、碎葉城に刻石して功を記した。高宗に「文武兼備」と称された。
- 詔露元(679年)年、突厥阿史德温傅の反乱に対し定襄道行軍大総管として三十余万の大軍を統率。糧車に伏兵を仕込む計略で虜を破り、営地移転の予知で暴風雨から軍を守るなど用兵の妙を示した。偽可汗泥熟匐を斬り、阿史那伏念・温傅を投降させて突厥の乱を平定した。
- 侍中裴炎の讒言で伏念に対する不殺の約束が反故にされたことを恨み、称疾して出仕せず。永淳元(682年)年、金牙道大総管に任じられるも出征前に64歳で没し、幽州都督・諡献を贈られた。
- 草隷に優れ『選譜』『草字雑体』等を著述。人物鑑識に長け、王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王の器量を見抜いた逸話(「先器識、後文芸」)や、程務挺・王方翼ら名将を見出した実績が知られる。
子 光庭
- 子の光庭は太常丞から兵部郎中・鴻臚少卿を経て、玄宗の泰山封禅の際に張説へ夷狄招撫策を献策し功を得た。中書侍郎・侍中・吏部尚書を歴任し循資格(資考本位の選挙制度)を定めた。58歳で没し太師を贈られ、諡は忠憲。
子 稹
- 光庭の子稹は起居郎として壽王瑁の立太子に反対する諫言を行い、給事中を辞退した。祠部員外郎で没す。子倩は度支郎中となり節の諡を得た。
玄孫 均
- 稹の玄孫均は荊南節度使として劉辟の乱を鎮圧、山南東道節度使に至るも財を弄び権幸に交わり、荒縦に流れたと評される。