新唐書卷一百八 列傳第三十三 劉仁軌

地方官から白江口の戦いへ

  • 汴州尉氏の人。貧しい中で学問に励み、河南道安撫大使任瑰の上疏を代筆した縁で息州参軍に抜擢された。
  • 陳倉尉のとき、法を犯した折衝都尉魯寧を処刑し、太宗の詰問に「臣を辱めたので殺した」と答え剛正を認められ咸陽丞に進む。
  • 貞觀十四(640年)年、同州での校猟に際し農事優先を諫言し新安令に抜擢された。李義府に憎まれ青州刺史に左遷、顯慶五(660年)年には義府の妨害で漕運の船を沈没させたとして白衣従軍となった。
  • 百済で福信・扶余豊の反乱鎮圧にあたり、新羅と協力して真峴城を攻略、白江口の戦いで倭軍と四戦して勝利し四百艘を焼き払った(海水が赤く染まったと伝える)。任存城の遅受信も降し百済の残党を平定した。
  • 帯方州刺史として百済の民政(埋葬・戸籍整備・道路開発・屯田)を復興。功により六階昇進し帯方州刺史・第宅を賜った。
  • 咸亨五(674年)年、雞林道大総管として新羅を討ち大鎮七重城を攻略。尚書左僕射兼太子賓客。太后臨朝後も左僕射として文昌左相・同鳳閣鸞台三品を歴任、85歳で没した。開府儀同三司・并州大都督を贈られ乾陵に陪葬、実封三百戸を賜った。
  • 裴炎の獄に連座しかけた部下姜嗣宗を武后の怒りにより処刑させた逸話が伝わる。子浚は酷吏に殺されたが、中宗即位後に司空を追贈され、孫の晃が文献の諡を請うた。