上疏と諫言
- 梓州射洪の人。若くして放蕩だったが一念発起し学問に励み、文明初(684年)年に進士に及第。
- 高宗崩御に伴う梓宮遷葬(長安)に反対し、東都洛陽での営山陵を上疏。関中の飢饉と辺境防衛の負担を挙げ、洛陽の地の利を説いた。
- 武后に召見され麟台正字。垂拱初、明堂・太学の興隆を勧める上奏を行い、元気(政治の根本)の重要性と人倫の調和を説いた。
- 三事を上奏:(1)使者派遣の乱発をやめ人選を厳にすべき、(2)刺史・県令の人選を資考のみで決めない、(3)軍役の頻発をやめ民生を安んずる。
- 吐蕃・九姓の反乱に関し、田揚名の擅断を理由に十姓の入朝を拒むのは得策でないと上疏し容れられた。安北府の設置と辺境の窮民救済についても献策した。
- 蜀山開発による羌討伐に対し「七験」を挙げて強く反対(無実の羌の怨みを買う、吐蕃討伐の失敗を繰り返す、蜀の富を敵に晒す等)、計画は撤回された。
- 八科の政策提言(刑を措く・官人・知賢・去疑・招諫・勧賞・息兵・安宗子)を奏上。刑罰の抑制、賢人任用の要諦、軍役の抑制などを説いた。
- 武攸宜の契丹討伐に従軍参謀として加わり、軍略の不備を諫めたが儒者として軽んじられ、軍曹に左遷された。
- 父の喪に服する中、県令段簡の讒言により捕らえられ、獄中で43歳で没した。
- 『感遇詩』三十八章を著し唐詩の雅正回帰を先導した文宗とされる。子の光は商州刺史、易甫・簡甫は御史となった。
附 王無競(字仲烈)
- 東莱に徙った家系で、宋の太尉王弘の遠裔。監察御史として宰相宗楚客・楊再思の朝儀違反を糾弾し恨みを買い、太子舎人に左遷。神龍初、権幸を弾劾して広州に流され、仇家に暗殺された。
附 趙元(字貞固)
- 河間の人。宜禄尉として隠者のような清廉な暮らしを送り、志を得ないまま49歳で没した。友人の魏元忠・孟詵・宋之問・崔璩らが「昭夷先生」と諡した。
史論
史論
- 贊に曰く、陳子昂が武后に明堂・太学の興隆を説いたのは高論であったが、武后は大臣・宗室を誅し君主を圧迫しながら権柄を握った人物であり、王道を説いても最終的に婦人(武后)に侮られ用いられなかった。これは圭璧を房闥(後宮)に薦め脂澤で汚すようなものであり、瞽者が泰山を見ず聾者が雷鳴を聞かぬのに等しいと評した。