選挙制度の改革
- 魏州観城の人。父林甫は内史舎人として蕭瑀らと律令を撰定し、四時聴選の制を建言して官の滞りを解消した。
- 祥道は吏部黄門侍郎知選事として六事を上疏。要旨は(1)雑色入流の濫を正す、(2)入流の数を抑制する、(3)善政・単言による抜擢の枠を広げる、(4)秀才科の再興、(5)四考進階・八考聴選による官の頻繁な入れ替えの是正、(6)流外出身者偏重の是正――であった。中書令杜正倫も同調したが、執政の反対で実現しなかった。
- 麟德元(664年)年に右相。高宗の泰山封禅では有司の提案(太常卿亜献)を改め九卿ではなく大臣が佐祠すべきと建言し、司徒徐王元礼を亜献、自らは終献とした。乾封元(666年)年致仕、71歳で没し幽州都督・諡宣を贈られた。
子 齊賢
- 子齊賢は襲爵し晋州司馬などを経て黄門侍郎、永淳元(682年)年に同中書門下平章事。武后時、裴炎の不反を弁護し左遷、酷吏に陥れられ獄中で自経、家産没収。建中三(782年)年に太子太保を追贈された。
従一
- 令植の孫従一は進士宏詞科に及第、徳宗の奉天行幸に従い刑部侍郎同中書門下平章事に抜擢されたが実務能力に乏しく、貞元初に戸部尚書に転じ、太子太傅を贈られた。