出自と直言のもたらした悲劇
- 上官儀、字は遊韶、陝州陝の人。父の弘は隋の江都宮副監であったが、大業末、陳棱に殺された。当時儀は幼く左右の者に匿われ、僧籍を偽って免れた。次第に文詞に巧みになり墳典(古典)に通じていった。貞観初、進士に及第し弘文館直学士を召された。秘書郎に遷る。太宗は文章を作るたびに儀に草稿を見せ、宴の際にも必ず同席させた。起居郎に転じる。高宗の即位後、秘書少監となり西台同東西台三品に進んだ。当時、雍州司士参軍の韋絢が殿中侍御史に任じられた際、これが不当な昇進ではないかと疑う声があったが、儀は「これは俗人の言葉にすぎない、御史は殿下の赤墀(皇帝の玉座近く)に仕え夔龍(賢臣)に接し、鵷鷺(朝廷の列)に加わる者だ、どうして雍州の判佐(下級官)に比べられようか」と述べた、当時これを清言(清らかで見識ある言葉)と評した。儀は詩に巧みで、その詞は綺麗で婉媚(優美)であった、貴顕するとこれを模倣する者が多く「上官体」と呼ばれた。
- 麟徳元年(664年)、梁王忠の事件に連座し獄死し家財が没収された。当初、武后が志を得て帝を牽制し権威を専らにしていたため帝は堪えられなくなっていた。また道士に厭勝(呪術)を行わせたことが中人の王伏勝によって発覚した。帝は大いに怒り后を庶人に廃そうとし儀を召して議論した。儀は「皇后は専恣(専横)であり、天下は失望しています、廃するのが人心に順うことです」と述べた。帝は儀に詔を起草させたが、左右の者がすぐに后に急報したため、后は自ら申し開きに来た。帝は悔い、さらに后の怨みを恐れ「上官儀が私にそう教えたのだ」と述べた。以後、后はますます儀を憎むようになった。当初、忠が陳王であった頃、儀はその諮議を務め、王伏勝と同じ府にいたことがあった。この時に至り許敬宗が儀と忠が大逆を謀ったと構え、これは后の意向によるものだった。褚遂良らの元老大臣が相次いで屠履(処刑)されて以来、公卿は誰も正しい議論をあえて行わなかったが、儀だけが忠を受け入れ、禍がすぐに追いついた、これにより天下の政は后に帰し、帝は拱手して何もできなくなった。
- 子の庭芝は周王府属を歴任し、これもまた殺された。庭芝の娘は中宗の代に昭容となり、儀に中書令・秦州都督・楚國公を追贈し、庭芝には黄門侍郎・岐州刺史・天水郡公を追贈し、礼を尽くして改葬された。
【贊】
- 賛にいう。高宗の君主らしからぬ態度をもって、共に治世を為すことができようか。内には寵姫(武后)に牽制され、外には讒言に脅されて、無忌の親、遂良の忠をもってしても、いずれも顧命の大臣であったのに、一朝にして誅斥され、忍びてこれを省みなかった。天の剛を反し陽の明を撓め、ついに雌鶏が朝を告げるように牝の声を天下に響かせ、皇統は后家に移った、なんと哀しいことであろうか。天が女戎(女性による国乱)をもって唐を隔て興そうとしたのであれば、たとえ義士仁人が死をもってこれに抗ったとしても、決して支えきれなかったであろう。しかし瑗・濟・義琰・儀の四人は守るべきものを知っていたと言えよう。ああ、もし長孫(無忌)が江夏王を追わず呉王を害することがなく、褚(遂良)が劉洎を讒言によって死なせることがなかったならば、その盛徳をどうして少しでも謗ることができようか。