新唐書卷一百六 列傳第三十一 杜正倫

出自と経歴

  • 杜正倫は相州洹水の人。隋代に秀才科に挙げられ、一門から三人の秀才を出す名家だった。
  • 太宗に文才を知られ秦王府文学館の直に任じられる。貞觀元(627年)年、魏徴の推薦で兵部員外郎に抜擢された。
  • 太宗は「賢者を挙げるのは私事ではなく百姓の利のためだ」と正倫を諭し、のち給事中・起居注に進めた。
  • 韋挺・虞世南・姚思廉らとともに直言を評価され、太宗自ら宴を設けて労った。

太子輔佐と失脚

  • 太子監国に際し左庶子兼崇賢館学士となり、太宗から太子の後見を託された。太宗は「即位後に過ちを悟った、太子には及ばぬだろう」と諭した。
  • 太子(李承乾)の非行を正倫に密告させたが、正倫が太宗の言葉を漏らして太子を諫めたため、太宗の叱責を受け谷州刺史に左遷、さらに交州都督に貶された。太子廃立の際には金帯を受けた罪で連座し馭州に流された。
  • 顯慶元(656年)年、黄門侍郎に抜擢され同中書門下三品に進み、度支尚書を兼ねた。中書令に進み襄陽県公に封ぜられたが、李義府と対立し、義府の讒言により橫州刺史に左遷、任地で没した。

逸話と後嗣

  • 城南の諸杜氏と同族を望んだが許されず恨みを含み、執政後に杜固の地を掘削して水を通したところ、川が血のように流れ、以後南杜氏は振るわなくなったと伝える。
  • 文章に優れ、中書舎人董思恭と論じ合った逸話が残る。子がなく兄の子志静を嗣とした。

従子 求仁

  • 従子の求仁は永淳中に監察御史となり黔令に左遷。徐敬業の挙兵に興復府左長史として加わり、戦死した。

従孫 咸

  • 従孫の咸は進士に及第、右台監察御史を歴任。牂柯の反乱を監軍として鎮圧し、火攻めで賊酋を捕らえた。侍御史・汾州長史・河北按察使を歴任、法の運用が厳しすぎたとして睦州司馬に貶された。