新唐書卷一百 列傳第二十五 張知謇

張知謇

  • 張知謇、字は匪躬、幽州方城の人。岐に家を移した。兄弟五人、知玄・知晦・知泰・知默、いずれも明経の高第で吏治に明るく清廉潔白で公卿らが争って引き立てた。調露年間、知謇は監察御史裏行、知默は左台侍御史となる。知謇は十一州の刺史を歴任し、赴任先では威厳をもって統治し、武后は璽書を送って労った。萬歳通天年間、德州刺史から入朝計上した際、后はその容貌を珍しく思い画工に描かせ、その兄弟の容姿と才を「両絶」と称した。門にはいずれも戟が並び、白い雀がその庭に巣を作ったといい、后はしばしば寵賜した。知泰は益州長史・中台左丞・兵部侍郎を歴任し陳留縣公に封ぜられた。
  • 中宗が房州にあった頃、監視は厳しく苛烈であったが、知謇と董玄質・崔敬嗣が相次いで刺史となり供応の礼を怠らなかった。帝は復位後、知謇に左衛将軍を拝し雲麾将軍を加え范陽郡公に封じた。知泰は御史台大夫を拝し銀青光禄大夫を加え漁陽郡公に封じた。兄弟が揃って白髪の高齢で共に貴顕し、当時これを栄誉とした。知泰は武三思の意にそぐわず并州刺史・天兵軍使として出た。魏州刺史で終わり諡は定とされた。知謇は東都副留守・左右羽林大将軍・同華州刺史を歴任し大理卿として致仕、年八十、開元年間に卒した。
  • 知謇は敏くて明朗、請託によって進むことを嫌い、才のない者が地位を得るのを見れば仇のように扱った。常に子孫を戒めて「経に明るくなければ挙用してはならない」と述べ、その家法は称賛された。
  • 武后の革命の際、知泰は東都の諸関十七所を設置し出入を厳しく取り締まることを上奏した。百姓は驚き薪や米が高騰したため、まもなく廃止されたが議者はこれを卑しんだ。
  • 知默は監察御史の王守慎・来俊臣・周興と共に詔獄を掌り、しばしば大臣を陥れた。守慎は知默の甥であったがその過酷な取調べを嫌い、離れることができなかったため僧籍に入ることを願い出て后がこれを許した。しかし知默自身は結局酷吏として糾弾され、子孫は禁錮に処せられ張氏の恥となった。
  • 知玄の子景升、知泰の子景佚は、開元年間いずれも顕官に至った。