新唐書卷一百 列傳第二十五 蔣儼

蔣儼

  • 蔣儼、常州義興の人。明経に及第し左屯衛兵曹参軍を拝命。太宗の高麗親征に際し使者を募ったが誰もが行くことを憚る中、儼は「天子の雄武と四夷の畏威をもってすれば、あの小さな国が天子の使者を害することがあろうか、もし不幸があればそれこそ私の死に場所だ」と奮起し出発を願い出た。莫離支(高麗の実力者)に捕らえられ、兵で脅されても屈せず、地下の窟室に幽閉された。高麗平定後、ようやく帰還を果たした。帝はその節義を称え朝散大夫を授けた。幽州司馬に転じ、劉祥道が巡察使として当地に赴いた際にその功績を報告し会州刺史に抜擢された。殿中少監に再遷し、しばしば時政の得失を陳べ、高宗はこれを喜んで受け入れた。蒲州刺史に進み、戸口が多く積年の訴訟が絶えず前刺史も相次いで罪を得て去っていたが、儼が着任すると隠された事情を暴き奸を禁じ良二千石と称された。永隆二年(681年)、老いを理由に致仕。まもなく太僕卿として召還されたが父の諱を理由に辞し太子右衛副率に転じた。
  • 中宗が東宮にあった頃、儼はしばしば過失を諫めたが聞き入れられなかった。総調護(東宮の総合的な補佐)の任にあったため諫めないわけにいかないと考えていた。この頃、処士の田遊岩が太子に洗馬として招かれ、太子から尊敬されていたが、儼は書を送り「太子は今まさに壮年、聖道にまだ至らぬところがある、足下は調護の任にあり物言うべき地位にありながら、ただ従順にするだけで一言も発しない。かつて王の禄を食んでいなければ、私がどうしてあれこれ言えようか。今、禄が親にまで及んでいるのに、どう報いようというのか」と責めた。遊岩は恥じて答えられなかった。まもなく儼は右衛大将軍に転じ、義興縣子に封ぜられ、太子詹事として致仕した。卒、享年七十八。中宗の即位後、旧恩により礼部尚書を追贈された。