新唐書卷一百 列傳第二十五 閻立德

字は立德、京兆萬年の人。工芸の才で知られ、將作大匠として太宗の陵墓・宮殿造営を歴任、高麗遠征では土木の功を挙げた。永徽五年(654年)没。

年表(4件)
  • 武徳初秦王府士曹参軍となり東都平定に従う
  • 貞観初将作少匠として獻陵の修築・昭陵の造営を担当する
  • 永徽五年(654CE年)、高宗の万年宮行幸に際し京師の留守を任される
  • 永徽五年(654CE年)卒、吏部尚書・并州都督を贈られる

閻立德

  • 閻讓、字は立德、字で通称され、京兆萬年の人。父の毘は隋の殿内少監で元来工芸の技で進んだ人物、それゆえ立德と弟の立本はともに機巧の才があった。武徳初、秦王府士曹参軍となり東都平定に従う。尚衣奉御に遷り袞冕六服・腰輿・傘扇の製作を担当しいずれも典法に適ったものだった。貞観初、将作少匠・大安縣男を歴任。獻陵の修築を担当し大匠を拝命。文德皇后が崩ずると司空を摂し昭陵を営んだが職務怠慢に連座し免ぜられた。博州刺史として起用された。太宗が洛陽に行幸した際、涼しく高台の離宮を建てるよう命じられ、汝州の西山を測量し汝水を制し廣成沢を望む地に「襄城宮」と称する宮を営んだが役夫は百余万に及んだ。宮が完成すると暑気がこもって居住に適さず、帝はこれを廃し民に賜り、責任を問われ免官となった。
  • まもなく大匠に復し、洪州で浮海の大船五百艘を造らせ、遼東遠征に従い殿中監を摂し土山の築造を計画、安市城を攻略した。軍が帰還する際、遼澤(湿地帯)二百里で泥濘のため通れなかったが立德は道を築いて橋を架け滞りなく通させた。帝は喜び手厚く賞賜した。さらに翠微・玉華の二宮を営み工部尚書に抜擢された。帝の崩御後、再び司空を摂し陵事を担当、功により大安縣公に進封。永徽五年(654年)、高宗の万年宮行幸に際し京師の留守を任され四万の徒卒を率いて京城を修めた。卒して吏部尚書・并州都督を贈られ昭陵に陪葬、諡は康。

附 閻立本

  • 立本、顕慶年間、将作大匠として立德に代わり工部尚書を拝命。総章元年(668年)、司平太常伯として右相を拝し博陵縣男に封ぜられた。当初、太宗が侍臣と春の苑池に舟を浮かべた際、珍しい鳥が波間に遊ぶのを見て喜び座に連ねる者に詩を作らせ、立本を呼び画かせようとした。閤外から「画師閻立本」と呼ばれた時、立本はすでに主爵郎中であったが伏して池の左に赴き丹粉を研いで筆を含み、座に連なる面々を仰ぎ見て恥じ汗を流した。帰宅すると子に「私は若い頃読書し文辞は同輩に劣らなかったが、今はただ絵で名を知られ、下働きの者と同じように扱われる、お前たちは決してこれを学ぶな」と戒めた。しかし生来の好みであり、辱めを受けても止めることができなかった。政務に就いても凡庸な実務家にすぎず宰相の器はなかった。当時、姜恪が戦功で左相に抜擢されており、世人は「左相は沙漠に武威を宣べ、右相は丹青(絵画)に誉れを馳す」と嘲った。咸亨元年(670年)、官名を復し中書令に改まる。卒して諡は文貞。立德の孫は知微、曾孫は用之。

孫 知微

  • 知微、聖暦初年、豹韜衛将軍となる。武后の時代、突厥の默啜が和親を求めた際、后は知微に春官尚書を摂させ金帛を持たせ武延秀をその娘に娶わせる使いとした。默啜は延秀が天子の子でないことに怒り拘束し、知微を脅して趙・定に侵入させ、可汗の如く尊んで華人に示し、河以北は騒然となった。朝廷は知微が国を売ったとして一族を滅ぼしたが、知微はこれを知らず逃げ帰った。武后はすでに処分を下していたため「悪臣が子を疾しめる(無実の子孫を巻き込む)ことを、百官に決着させよう」と述べた。骨は断たれ肉は分けられ、要職にない者は入手すらできなかった。子の則先は武三思の婿であったため死を免れた。玄宗が藩邸にあった頃、その巧みな割礼(かつての政変への協力)により寵を得た。開元年間、有司が供奉官に擬しようとした際、姚元崇は則先が刑戮を受けた家の者であり逆賊の姻族でもあるとして京師に留めるべきでないと述べたが、帝は「朕が外にあった頃、彼を使ったことがある、供奉させよ」と詔した。

曾孫 用之

  • 用之、初め彭州参軍となり録事を摂し、一日で数十の不正を糾したため太守にその才を認められた。通事舍人に挙げられ右衛郎将・知引駕仗に累進。金吾将軍李質が殿に昇る際、刀を解かなかったため呵責して退け法に照らして処分するよう請い、左右は震え畏れた。当初、有司は三衛の者が扇を執って登殿することを定めていたが、用之は三衛の者は皆勇猛で御座に近づけるべきではないとし、宦者に代えるよう上奏し、これが先例となった。天宝年間、娘は義王玼の妃となった。終には左金吾将軍に至った。