新唐書卷九十六 列傳第二十一 杜如晦
杜如晦、字は克明、京兆杜陵の人。隋末より秦王李世民に仕え、房玄齡の推挙で王佐の才と見込まれ、玄武門の変を支えた腹心。貞観初期には尚書右僕射として房玄齡とともに朝政を掌り、世に「房・杜」と併称された宰相。四十六歳で早世した。子孫は代々官に仕え、五世孫の元穎は宰相となるも南詔の成都侵攻を招いて左遷され、その一族の審権・讓能も唐末に至るまで要職を歴任した。
出自と隋末
- 杜如晦、字は克明、京兆杜陵の人。祖父の果は周・隋の間に名を知られた。如晦は少年時から才気煥発で読書を好み、風流を自任しつつ内には大節を秘め、機を見るや直ちに決断した。隋の大業年間、吏部の選に加わり、侍郎高孝基がこれを異才と見て「君は棟梁の材となるだろう、令徳を保つように」と評した。滏陽尉に補任されたが官を棄てて去った。
秦王府での重用
- 高祖が京師を平定すると秦王が府兵曹参軍に引き入れ、陝州総管府長史に転じた。当時府の属官が多く外に転出し秦王が憂えると、房玄齡は「去る者は多くとも惜しむに足りない、如晦こそ王佐の才です。大王が藩を守るだけなら不要ですが、四方を経営するお考えなら如晦なしに功を共にできる者はいません」と進言し、王は驚いて「公の言がなければ私は彼を失うところだった」と表を上げて幕府に留めた。以後征伐に従い常に帷幄の機密に参与、事が多く裁断に留まりがなく、僚属も皆その才を認めその奥行きを測りかねた。陝東道大行台司勲郎中に進み建平県男に封ぜられ文学館学士を兼ねた。天策府設立とともに中郎となる。王が皇太子となると左庶子を授かり兵部尚書に遷り蔡国公に進封、食邑三千戸のほか益州にも千三百戸を別に食んだ。まもなく侍中を検校、吏部尚書を摂し東宮兵を総監、尚書右僕射に進み選挙も引き続き掌った。
宰相としての功績と死
- 玄齡とともに朝政を掌り、賢者を引き入れ不肖の者を退け、それぞれが職を得て当時人望が厚く集まった。監察御史陳師合が『拔士論』を上奏し一人が複数の官職を兼ねるべきでないと述べ、暗に如晦らを批判したが、帝は「玄齡・如晦は勲旧によって進んだのではなく、天下を治める才があるからこそ用いた、師合はこれで我が君臣を離間しようというのか」と斥け嶺表に流した。
- 病により職を辞したいと願い出て詔で常俸を給わせ自宅で療養させ、医師の使いが絶えず往来した。病が篤くなると皇太子を見舞いに行かせ、帝自ら邸を訪れ悲痛のあまり言葉を詰まらせた。子の左千牛構を兼ねて尚舎奉御に擢した。薨去、享年四十六。帝は慟哭し開府儀同三司を贈り、葬儀に際し司空を加え諡を成とした。手ずから虞世南に碑文を書かせ、君臣の哀悼の意を伝えさせた。
- ある日、瓜を食べて美味だったため半分を供えた。かつて玄齡に黄銀の帯を賜った際「如晦と公は共に朕を輔けたが今は公だけが見える」と述べ涙を流し「世に黄銀は鬼神を畏れさせると伝わる」と言い、改めて金の帯を取り玄齡に送らせた。のち如晦を夢に見て平生のように語り、翌日玄齡に語ると帝はその御膳を祭に供えさせた。翌年の祥(一周忌)には尚宮を遣わして妻子を労い、国府の官佐もそのままに恩礼を絶やさなかった。のち功臣世襲の詔で密州刺史を追贈され国を萊に改めた。
房玄齡との関係と子孫
- 天下が新たに定まった時期、台閣の制度や憲章典礼はおおむね二人が討議して定めた。議事のたびに玄齡は「如晦でなければ計画できない」と言い、如晦が来ると結局玄齡の策が用いられた。如晦は決断に長け玄齡は謀略に優れ、両者は深く理解し合い心を同じくして帝を補佐した。当世で良相を語る者は必ず「房・杜」と称した。
- 子の構は慈州刺史。次子の荷は性格が凶暴で法に従わず、城陽公主を娶り尚乗奉御・襄陽郡公に至った。太子承乾の謀反に際し、荷は「琅邪の顔利仁は星占いに巧みで、天に変事があり大事を起こすべきだと言っている、陛下は太上皇となるべきだ、病と称すれば必ず見舞いに来るのでその隙に志を遂げられる」と説いた。事が敗れ誅殺されたが、刑に臨んでも態度は傲然としていた。構は連座の罪で嶺表に貶され死んだ。
楚客
- 如晦の弟の楚客は若くして奇節を好み、叔父の淹とともに王世充に捕らえられた。淹は如晦と不仲で兄を讒言して殺そうとし、楚客も囚われ瀕死となった。世充平定後、淹は誅殺されようとしたが楚客が如晦に助命を請い、如晦は当初許さなかった。楚客が「叔が兄を害し、今兄がまた叔を見捨てれば、一族はほとんど滅びる、痛ましいことではないか」と訴えると如晦は感悟し高祖に請うて釈放させた。建成の変が起こると楚客は嵩山に隠遁したが、貞観四年(630年)給事中に召された。太宗は「君が山に籠るのは、私を宰相にふさわしくないと思ったからだろう。だが遠くへ行く者も近くから始まる、官がないことを憂うのではなく才が及ばないことを憂うべきだ、兄と私は違う立場だが心は一つ、兄に仕えるように私を助けよ」と語り、楚客は頓首して謝し中郎将に抜擢された。宿直するたびに夜通し杖を離さず、帝はこれを労い蒲州刺史に進め善政で知られ瀛州に転じた。のち魏王府長史・工部尚書を摂し威厳で知られた。帝の意が太子承乾から離れているのを察すると、魏王に媚び諂う臣となり王の英明さを称える発言をしばしばし、これが帝の不興を買った。王が爵位を落とされるとその罪が暴かれたが、如晦の功により死は免れ官を廃されて自宅に留まり、虔化令で生涯を終えた。
如晦叔父 淹
- 淹、字は執禮、弁才と博識で美名があった。隋の開皇年間、友の韋福嗣と「上(文帝)は隠者の登用を好み、蘇威も隠者として召されて美官を得た」と語り、共に太白山に入り仕えない者となった。文帝はこれを憎み江表に流罪とした。赦免後、高孝基が雍州司馬となり承奉郎に推挙、御史中丞に累進した。王世充が僭号すると少吏部を署し、かなり親任された。洛陽平定後、調任されず隠太子に仕えようとした。時に封倫が選事を掌り、房玄齡にこの話を告げると玄齡はこれを失うことを恐れ秦王に白し、天策府兵曹参軍・文学館学士に引き入れた。侍宴で作った詩が特に巧みで銀鐘を賜った。慶州総管楊文幹の反乱で、その辞が太子に及び、罪を淹・王珪・韋挺に帰し越巂に流されたが、王はその誣告を知り黄金三百両を贈った。即位後、御史大夫に召され安吉郡公・食邑四百戸を封ぜられた。淹は諸司の文書処理の遅滞を建言し御史による監督強化を求めたが、太宗が僕射封倫に問うと「官はそれぞれの職掌で治まるもの、御史が違法を弾劾するのはよいが、記録を求めて瑕疵を探すのは苛酷にすぎ職権を侵す」と答え、淹は黙した。帝が「なぜ反論しないのか」と問うと「倫の言は国の大体を引くもの、臣もその議に服します、何を言えましょう」と答え、帝は喜んだ。帝は淹の博識を頼み東宮の儀典簿最を全て淹の裁定に委ねた。まもなく吏部尚書を検校し朝政に参与。推薦した者は四十人余り、後にみな知名となった。かつて郅懐道の登用を進言した際、帝がその事跡を問うと「懐道は隋の吏部主事だった時、煬帝が江都に行幸するのに群臣がみな迎合する中、独り反対した」と答えた。帝が「卿はその時何と言ったか」と問うと「臣は衆に従いました」と答え、帝は「君に仕えるなら諫言を怠らないのが道理、なぜ卿は直言しなかったのか」と難詰した。淹は「臣の位が低く、諫めても聞かれず徒死は無益と考えました」と謝った。帝は「君主が諫めるに値しないと思うなら、なぜ仕えるのか、隋の禄を食みながら隋の事を忘れるのは忠か」と述べ、群臣に問うと、王珪が「比干は諫めて死し孔子は仁と称えた、泄冶も諫めて死んだが『民の多僻、自ら辟を立てるなかれ』とも言われる、禄が重ければ責も深いのは古来の道理」と答え、帝は笑って「卿は隋で諫めなかった、それでよい。だが世充に親任されて諫めなかったのはなぜか」と問い、淹は「確かに諫めましたが用いられませんでした」と答えた。帝が「世充は諫言を憎み過ちを飾った、卿はどうして免れたのか」と問うと淹は答えに窮した。帝は「今すでに卿を任じている、諫めることはあるか」と促すと「死をも顧みず隠さず申します」と答えた。貞観二年(628年)病に倒れ帝が見舞い、卒して尚書右僕射を贈られ諡を襄とした。淹は二つの要職を歴任し朝廷で重んじられたが清廉の名は得られず、世の譏りを受けた。子の敬同が爵を襲ぎ鴻臚卿に至った。
如晦五世孫 元穎
- 如晦の五世孫元穎は貞観末に進士に及第、さらに宏詞科にも合格した。しばしば使府に招かれ、右補闕から翰林学士となり文辞に敏く憲宗に特に賞された。呉元濟平定の功を記す詔書の起草の功により司勳員外郎・知制誥に遷る。穆宗は元穎の朝廷典章への通暁を重んじ、中書舎人・戸部侍郎に抜擢、学士承旨となり本官のまま同中書門下平章事となった。建安縣男に封ぜられる。即位から一年足らずで宰相に至り、人々を驚かせた。わずか二年で剣南西川節度使・同平章事として出され、帝は安福門で自ら送別した。
- 敬宗が驕り君主らしくないため、元穎は帝の意を迎えようとして珍異を巧みに献上し続け、工人に無理な作業を課し重い税を課して軍糧まで削って蓄財に充てた。給与も不定期だったため戎人が寒さと飢えに苦しみ蛮地に頼るようになった。人々は苦しみ怨み、蛮に内通し防備は緩んだ。大和三年(829年)、南詔が虚に乗じて戎・巂等州を襲い、田元献刺史を捕らえ、回紇が涼州守将王君㚟を殺し河隴が大いに震撼した。守備兵は賊が来ると潰走し、成都に侵入させてしまった。城が包囲されても元穎は気づかず左右と共に牙城に籠るのみだった。賊は大いに掠奪し外郭を焼き払い残虐を尽くし、数日で去ったが蜀の宝貨・工芸品・子女は尽きた。元穎は当初逃亡しようとしたが援軍が来て止まった。文宗が南詔に使者を送ると南詔は「蜀の人々は我らに虐帥の誅殺を求めたが我らはできなかった、陛下に誅殺を願い蜀人に謝したい」と上言し、元穎は邵州刺史に貶された。議論は収まらず循州司馬に落とされた。属官の崔璜・紇幹巘・盧並もみな官位を奪われそれぞれ流された。元穎は貶所で死去、享年六十四。臨終に贈官と帰葬を願い出て湖州刺史が贈られた。元穎は李德裕と親しく、会昌初年、德裕が政権を握ると恩赦により官を復した。弟の元絳は太子賓客で終わる。元絳の子は審権。
元穎従子 審権
- 審権、字は殷衡、進士に及第し浙西幕府に招かれた。抜萃科に合格し右拾遺となる。宣宗の代、翰林に入り学士となり兵部侍郎・学士承旨に累進。懿宗の即位後、同中書門下平章事に進み、再遷して門下侍郎、鎮海軍節度使・同平章事として出向。龐勳が徐州で乱を起こすと審権は令狐綯・崔鉉と連携して包囲網を敷き糧秣を継続的に送り、王師はその援助に頼った。勲の乱が破れると検校司空に進み、尚書左僕射・襄陽郡公として入朝。河中・忠武の節度使を歴任。卒して太子太師を贈られ諡は徳。審権は清廉重厚で寡言、翰林に最も長く在任したが機密を漏らさなかった。方鎮にあっては視事の場所を常に定め、日が暮れないうちに私室に入らなかった。座る時は必ず衣服を整え、常に大賓客に対するようにした。昼に少し休息する際も直属の者に簾を解かせず、そばに人がいなければ自ら起きて鉤を外し簾を手で下ろしてから退いた。杜悰と共に将相の位にあり、悰の方が先に昇進していたため、世は審権を「小杜公」と呼んだ。
讓能
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子の讓能、字は群懿、進士に及第、宣武王鐸の幕府で推官となり、長安尉から集賢校理に進んだ。母の喪に孝を尽くしたことで知られた。劉鄴・牛蔚二府に招かれ、兵部員外郎に進む。蕭遘が度支を領した際、判度支按に引かれた。僖宗が蜀へ避難すると行在に馳せ参じ、三たび遷って中書舎人となり翰林学士に召された。関東で兵乱が起こると、調発や慰撫の詔書が集中し、讓能は思考精密で敏速、号令が下されるたびに機を捉え遺漏がなく、帝の信頼が厚かった。京師に戻ると兵部尚書に再遷、建平縣子に封ぜられた。
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李克用の兵が迫ると帝は夜に鳳翔を出たが、供する者もなく慌ただしかった。讓能は徒歩で十余里従い、遺棄された馬を得て紳(帯)を裂いて手綱代わりにこれに乗った。朱玫の兵が乗輿に迫り帝が寶雞に走った際、讓能だけが従った。翌日孔緯らがようやく到着した。まもなく梁へ避難、桟道が山南の石君渉によって破壊されており天子は艱難の道を進んだが讓能は片時も離れなかった。帝は「朕は道を失い再び宗廟を失いかけた、艱難の時に卿だけが朕を見捨てなかった、これぞ古のいわゆる忠に事に仕える者だろう」と労い、讓能は「臣は代々国の厚恩を蒙り、陛下は臣を不肖と思わず牧圉の護衛を任せてくださった、難に臨んで苟も免れるのは臣の恥です」と頓首して答えた。帝が褒中に留まると兵部侍郎・同中書門下平章事に抜擢された。
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嗣襄王煴が偽の帝位に即いた際、強藩・大鎮で従う者はすでに十八に達し、貢賦は行在に届かず衛兵はしばしば食に窮し、君臣は策なく手をこまねいていた。讓能は河中に大使を送り王重榮を諭すことを建言し、重榮は詔に従った。まもなく京師が平定されると中書侍郎に進み襄陽郡公に改封。官吏の多くが偽署に汚れていたが有司はみな死刑を求める中、讓能は脅従の罪は深く問うべきでないと固く争い、多くの命を救った。昭宗の即位後、尚書左僕射・晋国公に進み鉄券を賜り、太尉にまで進んだ。
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李茂貞は鳳翔を守り大順以降兵力を増し、功に頼って法に従わず朝廷は弱くこれを制せなかった。楊復恭が山南に逃れると、茂貞は梁・漢を併せ持とうと出兵して罪を問おうとし、報告のないまま兵を出したため帝はその専断に怒りつつもやむなく従った。山南平定後、茂貞に興元・武定の統括を詔し、徐彦若を鳳翔節度使とし果・閬州を武定軍に隷属させた。茂貞はこれを怨み赴任せず、上表の言葉が悖慢だった。さらに讓能に書を送り、詰責の言葉で自分を助けず功を奪ったと責め、その言葉は醜く放埒だった。京師は恐懼し、日々数千人が宮門に集い、宦官の中尉西門重遂の外出を待って鳳翔の地を茂貞に譲るよう百姓のために求めた。重遂は「事は宰相が出したこと、我は関知しない」と答え、茂貞はさらに怨みを深めた。帝は怒り讓能に計議を命じ調発を促したが月を越えても進まなかった。
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当時、宰相崔昭緯が密かに茂貞・王行瑜と結び、讓能が語ったことがすべて漏れていた。茂貞は健児数百人を市人に紛れさせ、昭緯と鄭延昌が邸に帰る際、輿を担ぎ上げ「鳳翔は無罪、公が討伐を加えないよう望み都を驚かせないでほしい」と騒いだ。昭緯は「上は杜太尉に委ねている、我らは何を知ろう」と言ったが、市人は太尉が誰か分からず瓦礫を投げつけ昭緯らは逃げて免れたが印を失った。帝はさらに怒り首謀者を捕らえ誅殺した。京師の人々は乱を避けようと山谷に逃げ込んだ。讓能は帝を諫めて「茂貞は誅すべきですが、大盗が去ったばかりで鳳翔は国の西門、陛下は即位したばかりでもあります、しばらく寛容にし、貞元の故事に倣って懐柔すべきです、怨みを買ってはいけません」と述べたが、帝は「今や詔令が城門を出ない、国制は弱体化した、賈誼が慟哭した時と同じだ、朕はただ日々を過ごしこの様を座視するだけでよいのか。卿は朕のためこれを図れ、朕は自ら兵を諸王に属させる」と答えた。讓能は「陛下が僭越傲慢を削り威を剛にし王室を隆盛にすることは、中外の大臣が共に成すべきことで、臣一人に任せるべきではありません」と述べたが、帝は「卿は元輔、休戚は朕と等しい、何を避けるのか」と答えた。讓能は泣いて「臣は宰相の位にあり、いまだ辞職を願い出ないのは陛下に報いる思いがあるからです、身を惜しみましょうか。しかも陛下のお心は憲祖(憲宗)のお心と同じですが、時にまだ都合の悪いことがあるのです。いつか臣が晁錯のように誅されることになっても、七国の患を除くには足りないでしょう、しかし詔を奉らないわけにはいきません」と答えた。
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景福二年(893年)、嗣覃王を招討使とし神策将李鐬を副将として三万の兵を率い彦若を鎮所に送らせた。昭緯は内心太尉の功を恐れ、密かに茂貞に「上は兵を好まない、この出兵はすべて太尉の意向だ」と告げた。茂貞は全軍で盩厔に迎え撃ち、覃王は敗れ、勝勢のまま三橋まで迫った。讓能は「臣はかねてこれを予言していました、臣に死をもって難を解かせてください」と申し出、帝は涙を流し「卿と決別しよう」と述べ、讓能は雷州司戸参軍に再貶された。茂貞はなお駐兵し必殺を求めたため、讓能は死を賜った、享年五十三。
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弟の彦林は御史中丞、弘徽は戸部侍郎、いずれも共に誅された。帝はこれを痛み、後に太師を贈った。
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子の光乂、次子の曉は再び仕えなかった。曉は後梁に入り世に貴顕した。
贈書相の贊
- 賛にいう。太宗は上聖の才で孤立した隋を取り群盗を払い、天下がすでに平定されると玄齡・如晦を用いて政を輔けさせた。大乱の後を興し、紀綱が乱れていたのを立て直し号令典刑を粲然と完備させ、数百年後もその功に浴した、まことに名宰相と呼べる。しかしそこに至った跡を求めても見出しがたいのはなぜか。唐の柳芳は「帝が禍乱を定めても房・杜はその功を語らず、王珪・魏徵は善諫を尽くしても房・杜はその直言を譲り、英公(李勣)・衛公(李靖)は用兵に優れても房・杜は文をもってこれを済した、多くの美点を持ちながら君に効した。以後、新進の臣が用いられるようになると、玄齡は要地にありながら権を惜しまず、始めをよくして終わりを全うした、これが令名を成した所以である」と語った。まことにその通りであろう。如晦は在職期間は短かったが、玄齡が示した信頼と帝の親愛の様子を見れば、その謀略は確かに人に卓越していたことがわかる。まさに君臣が明良であり志が一致し議論が従う時、互いに支え合って成し遂げたのは千載の遭遇であり、蕭何・曹参の勲功もこれには及ばない。とはいえ、宰相とは天に代わる者であり、輔け綻びを繕う功を人に知らせず用に潜ませるものである、この人々が世に知られぬまま事を為したことこそ明哲でなければできないことである。自らを誇り名を求め人にはっきり知らせようとする者は、房・杜に比べれば些末な者にすぎない。