新唐書卷九十五 列傳第二十 高儉
高儉、字は士廉。北齊の宗室高岳の孫。隋末は交趾に左遷されたが、唐に帰順後は秦王府に仕え玄武門の変を助け、右庶子・侍中を経て尚書右僕射に至った太宗朝の宰相。益州統治で善政を敷き、『氏族志』の編纂を主導した(?–647年、享年七十一)。太宗が凡人でないと見抜き、養育していた娘(のちの文徳皇后)を嫁がせた。
年表(2件)
- 武徳五年622年丘和とともに唐に帰順し、秦王の下で治中となる
- 貞観二十一年647年病が重くなり太宗自ら見舞う中で卒、享年七十一
出自と隋末の活躍
- 高儉、字は士廉、字で通称された。北齊の清河王高岳の孫、父は楽安王に封ぜられ隋で洮州刺史となった高勵。士廉は聡明で度量があり、容貌は絵のようで、書物は一読すれば暗誦でき、受け答えも機敏だった。隋の司隷大夫薛道衡・起居舎人崔祖濬ら年長の重臣たちと忘年の友となり、名を知られた。
- 斉の宗室であることから広く交わろうとせず終南山に隠棲したが、吏部侍郎高孝基に勧められて出仕し、仁寿年間に文才甲科に挙げられ治礼郎に任じられた。
- 斛斯政が高麗に亡命した事件に連座し硃鳶(交趾)の主簿に左遷されたが、母が年老いて瘴癘の地に住めないため妻の鮮于氏を残して赴任した。世が大乱に陥ると交趾太守丘和の司法書佐となり、欽州の俚族の首領寧長真が兵で交趾を侵した際、丘和に「長真の兵は多いが遠征軍で長くは持たない」と説いて撃退させた。
唐初の出仕と益州統治
- 高祖が嶺南に使者を送ると、武徳五年(622年)高儉は丘和とともに帰順し、秦王(太宗)の下で治中となり重用された。隠太子(李建成)と秦王の対立が激化すると長孫無忌と密議し、玄武門の変の当日に囚人を釈放して武装させ芳林門で戦いを助けた。秦王が皇太子になると右庶子に、のち侍中に進み義興郡公に封ぜられたが、王珪の上奏を隠して遅らせた罪で安州都督に左遷された。
- 益州大都督府長史に進む。蜀の人々は鬼を畏れ病を嫌い、親が病めば見捨てる風習があったが、高儉は条例を定めて教化し風俗を一変させた。また学問を興し、秦代に李冰が開いた汶江の水利を改修して灌漑を広げ、民を富ませた。
吏部尚書から尚書右僕射へ
- 吏部尚書に入り許国公に進封。人物の鑑識と氏族の系譜に通じ、任じた州官はいずれも人材と土地に適していた。高祖の崩御に際し司空を摂し山陵の造営を担当、特進を加えられ尚書右僕射に遷る。高儉一族は三代にわたりこの官を世襲し、世に栄誉とされた。
- 太宗が洛陽に行幸した際、皇太子監国のもと少師を摂するよう命じられ、「関中の統治を委ねる」との手詔を受けた。のち致仕を願い出て僕射を解かれ、開府儀同三司・同中書門下三品を加えられ政務に参与。太宗の高麗親征時には皇太子監国の下で太傅を摂し機務を共にしたが、太子の厚遇の申し出には固辞した。
晩年と死
- 并州で病を得て、太宗自ら見舞う。貞観二十一年(647年)病が重くなり、太宗が邸を訪れて涙を流し、卒した。享年七十一。太宗は喪を弔おうとしたが房玄齡が丹薬を服用中の身で喪に近づくべきでないと諫めた。しかし太宗は「朕には旧故姻戚の重みと君臣の分がある、卿は言うな」と応じ数百騎を率いて赴いた。長孫無忌が馬前に伏し高儉の遺言(喪に臨まないよう)を伝えると太宗はなお承知せず、無忌が涙して訴えてようやく東苑に戻り南に向かって哭した。司徒・并州都督を贈られ、諡は文献、昭陵に陪葬された。寒食の日には尚宮に命じて四度の供物を捧げさせ、太宗自ら祭文を作った。喪の行列が横橋を出る際、太宗は城の西北楼に登り哭泣して見送った。高宗の代に太尉を追贈され、太宗廟廷に配享された。
- 高儉は挙措が端正で、上奏の草稿は必ず焼き捨て家人にも見せなかった。若くして太宗が凡人でないことを見抜き、娘を嫁がせた。それが後の文徳皇后である。遺言で墓には衣一領と生前愛読した書物のみを納めるよう命じた。
氏族志の編纂
- 太宗はかつて山東の士人が門閥を誇り、家格が衰えても子孫が世望を頼みに婚姻に多額の資財を求める風潮(「売昏」と呼ばれた)を憂い、高儉・韋挺・岑文本・令狐徳棻に命じて天下の系譜を調べさせた。史伝を参照して真偽を検証し、忠賢を進め悖悪を退け、宗室を先にし外戚を後にし、新興の家を退け旧望の家を進め、名門を右にし寒門を左にして、合計二百九十三姓・千六百五十一家を九等に分け『氏族志』と名づけたが、崔幹はなお第一等とされた。
- 太宗は「崔・盧・李・鄭には恨みはないが、その家系はすでに衰えて官位もないのに、なお旧い家柄を頼みに婚資を求め、不肖の子孫が驕り高ぶって先祖の墓を売り物にしているのが理解できない」と述べ、南朝の斉・梁・陳は偏方の小国で貴ぶに足りないのに崔・盧・王・謝を重んじる旧習を批判し、「忠孝や学芸で天下平定に尽くした今の功臣を差し置いて旧い家柄に媚びて婚姻を栄誉とするのはおかしい。徳・功・言・爵位こそが門戸の基準だ」と述べ、崔幹を第三姓に改めさせ天下に頒布した。