新唐書卷九十三 列傳第十八 李勣
李勣、字は懋功、曹州離狐の人、もと徐氏。瓦崗軍から身を起こし李密に仕え、その帰順を唐に取り次いだことで高祖に「純臣」と評され唐姓を賜った。太宗・高宗二代にわたり突厥・高麗討伐などで功を重ね、尚書左僕射・司空にまで至った唐初の元勲(?–669年、享年八十六)。武昭儀立后問題では高宗を後押しし、のちその孫李敬業が武后に対し挙兵する遠因となった。
徐世勣から唐の元勲へ
- 李勣、字は懋功、曹州離狐の人。もと徐氏。翟讓の下で挙兵し、李密に仕えて黎陽倉の攻略を献策、二十万の兵を得るに至った。李密が唐に帰順した際、自ら土地・人民の帳簿を密に上表し「主君の敗北を自分の功にするのは恥」と述べたことを高祖に「純臣」と評され、萊国公・姓を賜られた。李密誅殺後もその喪に服した。
- 竇建德に一時捕らわれたが脱出し、劉黑闥・徐圓朗討伐、輔公祏討伐で功を重ね、太宗即位後は并州都督として十六年間辺境を鎮め「勣ありて長城に勝る」と評された。突厥・薛延陀討伐でも功を挙げ、高麗遠征では遼東道行軍大総管として蓋牟・遼東・白巖城を陥落させた。
- 太宗の信任は篤く、病の際に自ら鬚を切って薬に混ぜさせた逸話がある。太宗崩御に際し高宗への遺言で「李勣に恩を売らせるため一度左遷せよ」と指示され、疊州都督を経て高宗即位後に尚書左僕射・司空。高宗の武昭儀立后問題では「陛下の家事、外人に問う必要はない」と発言し立后を後押しした。高麗再遠征では莫離支泉男生の内紛に乗じ高麗を滅ぼし、太子太師に進んだ。
- 総章二年(669年)卒(年八十六)。「性は廉慎、財産を蓄えず」と評され、太尉・揚州大都督・貞武を追贈され昭陵に陪葬。単雄信の遺児を養育した逸話、姉の病に自ら粥を作り鬚を焦がした逸話など、情義に篤い人柄が伝わる。
孫 敬業
- 孫の李敬業は眉州刺史であったが贓罪で柳州司馬に左遷され、嗣聖元年(684年)武后の専権に憤り揚州で挙兵、匡復府を号し廬陵王(中宗)の復位を掲げた。李孝逸率いる三十万の官軍と戦い、思温の献策(洛陽直進)を用いず金陵保持策を選んだため戦機を逸し、石梁の戦いで火攻めにより大敗、逃亡中に部将王那相に斬られた。一族は誅され、叔父の李思文(潤州刺史として抵抗)のみが助命され武姓を賜った。
【贊】
- 賛に曰く、唐の名将として英国公(李勣)・衛国公(李靖)が挙げられるが、いずれも罪人・亡命者から身を起こし風雲に乗じて功を立てた。李靖が門を閉ざして疑いを避けたのは、功大にして主に疑われぬためであり、古の哲人にも劣らない。李勣の節義は黎陽の一件に見えるが、太宗の孤児託付の情に応えられず、高宗の武昭儀立后に迎合したことで武氏が奮起し唐の宗室がほぼ滅ぼされる事態を招いた。その孫敬業の挙兵により先祖の塚まで暴かれたのは、その一言が国を誤らせた結果ではないか。李靖が風角・鳥占等の術に長けたという世評は正しくなく、実際は臨機の果断と敵情判断の明晰さ、忠智に基づくものであった。