新唐書卷三十五 志第二十五 五行二
五行伝に「宮室を治め、台榭を飾り、内に淫乱があり、親戚を犯し、父兄を侮れば、稼穡が成らない」とある。土がその性を失えば水旱の災いがあり草木百穀が実らないことをいう。また「思心の不睿、これを不聖という。その咎は霿(くら)い、その罰は常風、その極は凶短折。時には脂夜の妖があり、時には華孽・臝虫の孽があり、時には牛禍があり、時には心腹の痾があり、時には黄眚黄祥があり、これを木・火・金・水が土を沴うという」とある。
稼穡不成
- 貞観元年(627年)、関内が飢饉となった。
- 總章二年(669年)、諸州四十余りで飢饉となり関中がとりわけひどかった。
- 儀鳳四年(679年)春、東都が飢饉となった。
- 調露元年(679年)秋、関中が飢饉となった。
- 永隆元年(680年)冬、東都が飢饉となった。
- 永淳元年(682年)、関中及び山南の州二十六が飢饉となり京師では人が互いに食んだ。
- 垂拱三年(687年)、天下が飢饉となった。
- 大足元年(701年)春、河南の諸州が飢饉となった。
- 景龍二年(708年)春、飢饉。三年三月、飢饉。
- 先天二年(713年)冬、京師・岐・隴・幽州が飢饉となった。
- 開元十六年(728年)、河北が飢饉となった。
- 乾元三年(760年)春、飢饉となり米一斗が銭千五百に及んだ。
- 廣德二年(764年)秋、関輔が飢饉となり米一斗が千銭となった。
- 永泰元年(765年)、飢饉となり京師の米一斗が千銭となった。
- 貞元元年(785年)春、大飢饉となり東都・河南・河北で米一斗が千銭となり死者が枕を並べた。二年五月、麦がまさに実ろうとしていたところに長雨があり米一斗が千銭となった。十四年、京師及び河南が飢饉となった。十九年秋、関輔が飢饉となった。
- 元和七年(812年)春、飢饉。八年、広州が飢饉となった。九年春、関内が飢饉となった。十一年、東都・陳許州が飢饉となった。
- 長慶二年(822年)、江淮が飢饉となった。
- 大和四年(830年)、河北及び太原が飢饉となった。六年春、剣南が飢饉となった。九年春、飢饉となり河北がとりわけひどかった。
- 開成四年(839年)、温・台・明等州が飢饉となった。
- 大中五年(851年)冬、湖南が飢饉となった。六年夏、淮南が飢饉となり、海陵・高郵の民が官河で異常な米を漉い取り「聖米」と呼んだ。九年秋、淮南が飢饉となった。
- 咸通三年(862年)夏、淮南・河南が飢饉となった。九年秋、江左及び関内が飢饉となり東都がとりわけひどかった。
- 乾符三年(876年)春、京師が飢饉となった。
- 中和二年(882年)、関内で大飢饉となった。四年、関内で大飢饉となり人が互いに食んだ。
- 光啟二年(886年)二月、荊・襄で大飢饉となり米一斗が三千銭となり人が互いに食んだ。三年、揚州で大飢饉となり米一斗が万銭となった。
- 大順二年(891年)春、淮南で大飢饉となった。
- 天祐元年(904年)十月、京師で大飢饉となった。
常風
- 武德二年(619年)十二月壬子、大風が木を抜いた(易では巽が風にあたり「重ねて巽じて以て命を申ぶ」という。風は人君の誥命の象で、天地の間で鼓動し、時に飛沙揚塵は怒りを表し、屋を発き木を抜くのはさらに甚だしい怒りを表す。占いは「大臣が専恣し気が盛んで衆が逆に志を同じくし、君が暗闇の中を行けば、事に施せばみな傷害を受けるゆえ常風となる」。また「つむじ風が宮闕に入ること一日に再三に及べば、風の音が雷のように地に触れて起これば兵が興ろうとする兆し」ともいう)。
- 貞観十四年(640年)六月乙酉、大風が木を抜いた。
- 咸亨四年(673年)八月己酉、大風で太廟の鴟尾が落ちた。
- 永隆二年(681年)七月、雍州で大風が稼を害した。
- 弘道元年(683年)十二月壬午晦、宋州で大風が木を抜いた。
- 嗣聖元年(684年)四月丁巳、寧州で大風が木を抜いた。
- 垂拱四年(688年)十月辛亥、大風が木を抜いた。
- 永昌二年(690年)五月丁亥、大風が木を抜いた。
- 神龍元年(705年)三月乙酉、睦州で大風が木を抜いた。崔玄暐が博陵郡王に封ぜられたとき、大風がその輅の蓋を折った。二年六月乙亥、滑州で大風が木を抜いた。
- 景龍元年(707年)七月、郴州で大風があり屋を発き木を抜いた。八月、宋州で大風が木を抜き廬舎を壊した。二年十月辛亥、滑州で暴風が屋を発いた。三年三月辛未、曹州で大風が木を抜いた。
- 開元二年(714年)六月、京師で大風が屋を発き大木の十のうち七、八が抜けた。四年六月辛未、京師・陝・華で大風が木を抜いた。九年七月丙辰、揚州・潤州で暴風雨があり屋を発き木を抜いた。十四年六月戊午、大風が木を抜き屋を発き端門の鴟尾がすべて落ちた(端門は号令の出るところ)。十九年六月乙酉、大風が木を抜いた。二十二年五月戊子、大風が木を抜いた。
- 天寶十一載(752年)五月甲子、東京で大風が木を抜いた。十三載三月辛酉、大風が木を抜いた。
- 永泰元年(765年)三月辛亥、大風が木を抜いた。
- 大曆七年(772年)五月乙酉、大風が木を抜いた。十年五月甲寅、大風が木を抜いた。
- 貞元元年(785年)七月庚子、大風が木を抜いた。六年四月甲申、大風雨。八年五月己未、暴風が太廟の屋瓦を発き門闕・官署・廬舎の被害は数えきれなかった。十年六月辛未、大風が木を抜いた。十四年八月癸未、広州で大風があり屋を壊し舟を覆した。
- 元和元年(806年)六月丙申、大風が木を抜いた。三年四月壬申、大風が含元殿の欄檻二十七間を壊した(占いは兵が起こる兆し)。四年十月壬午、天に煙のような気があり皮を焼くような臭いがし日が傾く頃大風とともに止んだ。五年三月丙子、大風が崇陵上宮衙殿の鴟尾及び神門戟竿六本を壊し行垣四十間を壊した。八年六月庚寅、京師で大風雨があり屋を壊し瓦を飛ばし多くの人が圧死した。丙申、富平で大風があり棗の木千余株を抜いた。十二年春、青州で一夜暴風が西北から吹き天地が暗くなり空中に旌旗のような形が見え屋瓦の上で踏み躙るような音がした。ある占者はこれを占って「五年以内にこの地で大殺戮があるだろう」と言った。
- 長慶二年(822年)正月己酉、大風霾(土まじりの風)。十月、夏州で大風があり飛砂が城壁ほどの高さに堆積した。三年正月丁巳朔、大風で終日曇り霾った。四年六月庚寅、大風が延喜門及び景風門を壊した。
- 大和八年(834年)六月癸未、暴風が長安県署及び経行寺の塔を壊した。九年四月辛丑、大風が万株の木を抜き含元殿の四つの鴟尾を落とし殿廷の樹三本を抜き金吾仗舎を壊し城門楼観内外三十余所を発き光化門の西城十数堞が壊れた。
- 開成三年(838年)正月戊辰、大風が木を抜いた。五年四月甲子、大風が木を抜き、五月壬寅もまた同様であり、七月戊寅もまた同様であった。
- 會昌元年(841年)三月、黔南で大風が瓦を飛ばした。
- 咸通六年(865年)正月、絳州で大風が木を抜き十囲もある木もあった。十一月己卯晦、潼関で夜中に大風があり山が雷鳴のように吼え河は石を噴き鳴らし群烏が乱れ飛び重関が傾いた。十二月、大風が木を抜いた。
- 乾符五年(878年)五月丁酉、大風が木を抜いた。
- 廣明元年(880年)四月甲申、京師及び東都・汝州で雹が降り大風が木を抜いた。四年六月乙巳、太原で大風雨があり木千株を抜き百里にわたって稼を害した。
- 光化三年(900年)七月乙丑、洺州で大風があり木を抜き屋を発いた。
- 天復二年(902年)、昇州で大風があり屋を発き大木を飛ばした。
夜妖
- 大和九年(835年)十一月戊辰、昼が暗くなった。
- 咸通七年(866年)九月辛卯朔、天が闇くなった。
- 乾符二年(875年)二月、宣武の境内で黒風があり土の雨が降った。
- 天祐元年(904年)閏四月乙未朔、大風があり土の雨が降った。
華孽
- 延載元年(694年)九月、内裏から梨の花の一枝を出して宰相に示した(万木が葉を落とす季節に花が咲くのは陰陽が乱れることを示す。伝に「天が時に反するのは災いである」とある。また常燠に近い)。
- 神龍二年(706年)十月、陳州で李の花が咲き春のように鮮やかであった。
- 元和十一年(816年)十二月、桃・杏の花が咲いた。
- 大和二年(828年)九月、徐州・滑州で李の花が咲き実がついて食べられた。
- 會昌三年(843年)冬、沁源で桃李の花が咲いた。
- 廣明元年(880年)冬、桃李の花が咲き山の花もみな開いた。
- 中和二年(882年)九月、太原の諸山で桃杏の花が咲き実がついた。
- 景福中、滄州の城壕の氷に文様が現れ、大樹に花葉が咲き乱れる絵のようであった。当時の人はその地に兵難があると考えた(華孽に近い)。
臝蟲之孽
- 貞観二十一年(647年)八月、萊州で螟(稲の害虫)が発生した。
- 開元二十二年(734年)八月、榆関で虸蚄虫(いなご)が稼を害し平州の境に及んだが、群れの雀が来てこれを食べ一日で尽きた。二十六年、榆関で虸蚄虫が稼を害し群れの雀が来てこれを食べた。
- 開元三載(実際は開元三年か、原文どおり「三載」)、青州で紫色の虫が田を食べ、鳥がこれを食べた。
- 廣德元年(763年)秋、虸蚄虫が稼を害し関中がとりわけひどく米一斗が千銭となった。
- 貞元十年(794年)四月、江西の渓澗で魚の頭にみなミミズがついていた。
- 長慶四年(824年)、絳州で虸蚄虫が稼を害した。
- 大和元年(827年)秋、河東・同虢等州で虸蚄虫が稼を害した。
- 開成元年(836年)、京城で長さ五、六十歩、幅五尺から一丈、厚さ五寸から一尺に及ぶ蟻の群れがあった。四年、河南で黒い虫が田を食べた。
牛禍
- 調露元年(679年)春、牛の疫病が大流行した(京房易伝に「牛が少なくなれば穀物が実らない」とある。また「金革の事が動く」とも占う)。
- 長安中、前脚のない牛、三本足で歩く牛が献じられたことがあった。また肩に足が数本生えた牛もあり蹄・爪までみな備わっていた。武太后の従姉の子である司農卿の宗晉卿の家の牛に三本角が生えた。
- 神龍元年(705年)春、牛の疫病が流行した。二年冬、牛の疫病が大流行した。
- 先天の初め、洛陽の市に脇に一尺ほどの人の手を持つ牛がおり、これを引いて物乞いをする者がいた。
- 開元十五年(727年)春、河北で牛の疫病が大流行した。
- 大曆八年(773年)、武功・櫟陽の民家で頭が二つある子牛が生まれた。
- 貞元二年(786年)、牛の疫病が流行した。四年二月、郊祭用の牛に六本足の子牛が生まれた(足が多いのは下が一つでない象)。七年、関輔で牛の疫病が大流行し死者が十のうち五、六に及んだ。
- 咸通七年(866年)、荊州の民家で五本足の子牛が生まれた。十五年夏、渝州江陽で水牛が驢馬の子を生んだが駒は死んだ。
- 光啟元年(885年)、河東で牛が人語を発する事件があり、その家では殺して食べた。二年、延州膚施で死んだ牛が生き返った。
黄眚黄祥
- 貞観七年(633年)三月丁卯、土の雨が降った。二十年閏三月己酉、幅一丈の黄雲が東西の天際に広がった(黄は土功を表す)。
- 永徽三年(652年)三月辛巳、土の雨が降った。
- 景龍元年(707年)六月庚午、陝州で土の雨が降った。十二月丁丑、土の雨が降った。
- 天寶十三載(754年)二月丁丑、黄色い土の雨が降った。
- 大曆七年(772年)十二月丙寅、土の雨が降った。
- 貞元二年(786年)四月甲戌、土の雨が降った。八年二月庚子、土の雨が降った。
- 大和八年(834年)十月甲子、土の霧が昼を暗くし十一月癸丑まで続いた。
- 開成元年(836年)七月乙亥、土の雨が降った。
- 咸通十四年(873年)三月癸巳、黄色い土の雨が降った。
- 中和二年(882年)五月辛酉、大風があり土の雨が降った。
- 天復三年(903年)二月、土の雨が降り天地が霾って暗くなった。
- 天祐元年(904年)閏四月甲辰、大風があり土の雨が降った。
木火金水沴土
- 武德二年(619年)十月乙未、京師で地震があった(陰が盛んで反常となれば地震が起こるとされる。占いは臣が強くなる、后妃が専恣する、夷が華を犯す、小人の道が伸びる、寇が至る、叛臣が出る、いずれかを示す)。七年七月、巂州で地震があり山が崩れ江を塞ぎ水がせき止められた。
- 貞観七年(633年)十月乙丑、京師で地震があった。十二年正月壬寅、松・叢二州で地震があり廬舎を壊した。二十年九月辛亥、霊州で地震があり雷のような音がした。二十三年八月癸酉朔、河東で地震があり晋州がとりわけひどく五十余人が圧死し、乙亥にまた震え、十一月乙丑にもまた震えた。
- 永徽元年(650年)四月己巳朔、晋州で地震があり、己卯にまた震えた。六月庚辰にまた震え雷のような音がした。二年十月、また震えた。十一月戊寅、定襄で地震があった(帝は初め晋王に封ぜられ、即位したばかりで地震がしばしば起こるのは天下が帝によって動揺する象とされた)。
- 儀鳳二年(677年)正月庚辰、京師で地震があった。
- 永淳元年(682年)十月甲子、京師で地震があった。
- 垂拱三年(687年)七月乙亥、京師で地震があった。四年七月戊午、また震えた。八月戊戌、神都で地震があった。
- 延載元年(694年)四月壬戌、常州で地震があった。
- 大足元年(701年)七月乙亥、揚・楚・常・潤・蘇の五州で地震があった。二年八月辛亥、剣南の六州で地震があった。
- 景龍四年(710年)五月丁丑、剡県で地震があった。
- 景雲三年(712年)正月甲戌、幷・汾・絳の三州で地震があり廬舎を壊し百余人が圧死した。
- 開元二十二年(734年)二月壬寅、秦州で地震があった。西北で隠々と音がし地が裂けてはまた合し、しばらく止まず廬舎がほとんど壊れ四千余人が圧死した。二十六年三月癸巳、京師で地震があった。
- 至德元載(756年)十一月辛亥朔、河西で地震があり地が裂けて音がし廬舎が陥没した。張掖・酒泉がとりわけひどく、二載三月癸亥まで続いた。
- 大曆二年(767年)十一月壬申、京師で地震があり東北から来て音は雷のようであった。三年五月丙戌、また震えた。十二年、恒・定二州で大地震があり三日続き、束鹿・寧晉で地が数丈裂け砂石が水とともに平地に流れ出て廬舎を壊し数百人が圧死した。
- 建中元年(780年)四月己亥、京師で地震があった。三年六月甲子、また震えた。四年四月甲子、また震えた。五月辛巳、また震えた。
- 貞元二年(786年)五月己酉、また震えた。三年十一月丁丑の夜、京師・東都・蒲・陝で地震があった。四年正月庚戌朔の夜、京師で地震があり、辛亥・壬子・丁卯・戊辰・庚午・癸酉・甲戌・乙亥もみな震え、金・房二州がとりわけひどく川が溢れ山が裂け屋宇が多く壊れ人々は皆野に露宿した。二月壬午、京師でまた震え、甲申・乙酉・丙申、三月甲寅・己未・庚午・辛未、五月丙寅・丁卯もみな震えた。八月甲午、また震え雷のような音がし、甲辰にもまた震えた。九年四月辛酉、また震え雷のような音がし河中・関輔がとりわけひどく城壁・廬舎を壊し地が裂け水が湧いた。十年四月戊申、京師で地震があり、癸丑にまた震え、侍中の渾瑊の邸で樹が湧き出て枝にみなミミズがついていた。十三年七月乙未、また震えた。
- 元和七年(812年)八月、京師で地震があり草木がみな揺れた。九年三月丙辰、巂州で地震があり昼夜八十回に及び百余人が圧死し地が三十里にわたって陥没した。十年十月、京師で地震があった。十一年二月丁丑、また震えた。十五年正月、穆宗が即位し戊辰、初めて宣政殿で群臣に朝したが、この夜地震があった。
- 大和二年(828年)正月壬申、地震があった。七年六月甲戌、また震えた。九年三月乙卯、京師で地震があり屋瓦がみな落ち戸牖の間で音がした。
- 開成元年(836年)二月乙亥、また震えた。二年十一月乙丑の夜、また震えた。四年十一月甲戌、また震えた。
- 會昌二年(842年)正月癸亥、宋・亳二州で地震があった。十二月癸未、京師で地震があった。
- 大中三年(849年)十月辛巳、上都及び振武・河西・天徳・霊武・塩夏等州で地震があり廬舎を壊し数十人が圧死した。十二年八月丁巳、太原で地震があった。
- 咸通元年(860年)五月、上都で地震があった。六年十二月、晋・絳二州で地震があり廬舎を壊し地が裂け泉が湧き青い泥が出た。八年正月丁未、河中・晋・絳三州で大地震があり廬舎を壊し死者があった。十三年四月庚子朔、浙東・西で地震があった。
- 乾符三年(876年)六月乙丑、雄州で地震があり七月辛巳まで続き州城・廬舎がすべて壊れ地が陥没し水が湧き死傷者が甚だ多かった。この月、濮州で地震があった。十二月、京師で地震があり音がした。四年六月庚寅、雄州で地震があった。六年二月、京師で地震があり音は雷のようで藍田山が裂け水が湧いた。
- 中和三年(883年)秋、晋州で地震があり音は雷のようであった。
- 光啟二年(886年)春、成都で地震があり月中十数回に及んだ(占いは「兵・饑」)。十二月、魏州で地震があった。
- 乾寧二年(895年)三月庚午、河東で地震があった。
山摧
- 貞観八年(634年)七月、隴右で山崩れがあった(山は高峻であり、上から隕ちるのはその象である)。
- 垂拱二年(686年)九月己巳、雍州新豊県露台郷で大風雨・震電があり山が湧き出て高さ二十丈、周囲三百畝の池ができ、池中に龍鳳の形と禾麦の異象があった。武后はこれを吉祥として「慶山」と名づけたが、荊州の人の俞文俊が「天気が不和で寒暑が隔たり、人気が不和で贅疣が生じ、地気が不和で堆阜が出ます。今、陛下は女主として陽の位に居り剛柔を逆にしているため地気が塞がり山が変じて災いとなったのです。陛下がこれを『慶山』とされるのは、臣は慶事ではないと考えます。身を慎み徳を修めて天の譴めに応じられるべきで、さもなくば災禍が至るでしょう」と上言した。后は怒り彼を嶺南に流した。
- 永昌中、華州赤水の南岸の大山が昼、突然風で暗くなり隠々と雷のような音がし、しばらくして東へ数百歩移動し赤水をせき止め張村の民三十余家を圧し、山の高さは二百余丈、水の深さは三十丈に及び、坂の上の草木はそのままの姿であった(金縢に「山が移るのは人君が道を用いず、禄が公室を去り、賞罰が君主から出ず、佞人が政を執り、政が女主にあれば、五年以内に王が逃げ出す」とある)。
- 開元十七年(729年)四月乙亥、大風震電があり藍田山が百余歩にわたり摧け裂けた(畿内の山である。国は山川を主り、山が崩れ川が涸れるのは滅亡の証である。占いは「人君の徳が衰え政が易われば然り」とする)。
- 大曆九年(774年)十一月戊戌、同州夏陽で山が河の上に移動し雷のような音がした。十三年、郴州の黄芩山が崩れ数百人が圧死した。
- 建中二年(781年)、霍山が裂けた。
- 元和八年(813年)五月丁丑、大隗山が崩れた。十五年七月丁未、苑中の土山が崩れ二十人が圧死した。
- 光啟三年(887年)四月、維州で山崩れがあり幾日も止まず塵が天を覆い江水をせき止め逆流させた(占いは「国が破れる」)。
山鳴
- 武德二年(619年)三月、太行山の聖人崖で音がした(占いは「寇が至る」)。
- 開元二十八年(740年)六月、吐蕃が安戎城を囲み水路を断ったとき、城東の山が鳴り石が裂け泉が二つ湧いた。
土為變怪
- 垂拱元年(685年)九月、淮南の地に毛が生え、白いものも蒼いものもあり長いものは一尺余りに及び居人の牀下に遍く広がり、揚州がとりわけひどく馬の鬣ほどの大きさで焼くと毛を焦がすような臭いがした(占いは「兵が起こり民が安からず」)。
- 長壽中、東都の天宮寺の泥像がみな汗をびっしょりと流した。
- 天寶十一載(752年)六月、虢州閺郷の黄河中にあった女媧の墓が大雨で天が暗くなった際にその所在を失い、乾元二年六月乙未の夜になって河の近くの人々が風雷の音を聞き、明け方にその墓が湧き出るのを見た。下には巨石があり上には丈余りの柳が二本あり、当時「風陵堆」と呼んだ(占いは「塚墓が自ら移るのは天下が破れる兆し」)。十三載、汝州葉県の南で土の塊が闘うように動き、中から血が出て数日止まなかった。
- 大曆六年(771年)四月戊寅、藍田西原の地が陥没した。
- 建中の初め、魏州魏県の西四十里で地が数畝にわたって突然数尺盛り上がった。四年四月甲子、京師の地に毛が生え、黄色いものも白いものもあり長さ一尺余りのものもあった。
- 貞元四年(788年)四月、淮南及び河南の地に毛が生えた。
- 元和十二年(817年)四月、呉元済の郾城守将の鄧懷金が城を挙げて降ったとき、城が自然に五十余歩にわたり崩れた。
- 大和六年(832年)二月、蘇州で地震があり白い毛が生えた。
- 長慶中、新都の大道観の泥人に数寸のひげが生え、抜いてもまた生えた。
- 咸通五年(864年)十月、貞陵の隧道が崩れ陥没した。神策軍にあった仏像に懿宗がかつて跪いて礼をしたが、その像が地に四尺沈んだ。
五行伝に「攻戦を好み、百姓を軽んじ、城郭を飾り、辺境を侵せば、金は革に従わない」とある。金がその性を失って変怪をなすことをいう。また「言の不従、これを不乂という。その咎は僭、その罰は常暘、その極は憂。時には詩妖・訛言があり、時には毛虫の孽があり、時には犬禍があり、時には口舌の痾があり、時には白眚白祥があり、これを木が金を沴うという」とある。
金不從革
- 堯君素が隋のために蒲州を守っていたとき、兵器が夜ごとに火のような光を放った(火は金を鑠かすもので金の畏れるところであり、敗亡の象である)。劉武周が幷州を拠点とし兵勢が甚だ盛んであったとき、城上の矟の刃が夜ごとに火光を放った。
- 貞観十七年(643年)八月、涼州昌松県の鴻池谷に青い質に白い文で字を成す石が五つあり「高皇海出多子李元王八十年太平天子李世民千年太子李治書燕山人士樂太國主尚汪譂奬文仁邁千古大王五王六王七王十風毛才子七佛八菩薩及上果佛田天子文武貞觀昌大聖延四方上不治示孝仙戈八為善」と記されていた。太宗は使者を遣わしこれを祭って「天に成命あり、瑞を貞石に表す。文字は昭然として暦数はこれ永く、既に高廟の業を旌し、また眇身の祚を賜う。皇太子治に迨んで、また貞符を降し姓氏を具に紀す。甫めて寡薄なれば彌々寅懼を増す」と祝った。昔、魏が土徳をもって漢に代わったとき涼州の石に文が現れ、石は金の類であるから五行相勝によって推せば当時の人はこれを魏氏の妖であり晋室の瑞であるとした。唐もまた土徳をもって王たるため石に文があったことは頗る類似する事例である。しかしその文は当初解しがたく、後人が既に起きた事実によってこれを検証した。武氏の革命は自ら金徳をもって王たるとし、その「佛菩薩」は弥勒(慈氏)金輪の号であり、「樂太國主」は鎮国太平公主・安楽公主を指し、いずれも女によって国を乱した者であり、その「五王六王七王」は唐の代の十八の数を示すという。
- 垂拱三年(687年)七月、魏州の地から鉄が船のような形で数十丈にわたり出た。広州で金の雨が降った(金は正秋の位にあり刑・兵を表す。占いは「人君が無辜を多く殺せば一年以内に朝廷に兵災がある」)。
- 開元二十三年(735年)十二月乙巳、龍池の聖徳頌の石が自ら鳴り、その音は鐘磬のように清らかで遠くまで届いた(石は金と同類。春秋伝に「怨讟が民の間で動けば、言うはずのない物が言う」とある。石が鳴るのは石が言うに近い)。
- 天寶十載(751年)六月乙亥、大同殿前の鐘が自ら鳴った(占いは「庶雄が乱をなす」)。
- 至德二載(757年)、昭陵の石馬が汗を流した(昔、北周の武帝が晋州を克したとき、北斉の石像が汗を流し地を濡らしたのと同類である)。
- 乾元二年(759年)七月乙亥、昼、渾天儀に汗のような液が流れ落ちた。
- 上元二年(761年)、楚州が十三の宝玉を献じた。「玄黄天符」(笏の形で長さ八寸、孔があり兵疫を辟けるという)、「玉鶏毛」(白玉)、「穀璧」(同じく白玉で粟粒が自然にでき彫った跡がない)、「西王母白環」二つ、「如意宝珠」(鶏卵ほどの大きさ)、「紅靺鞨」(大きな粟粒ほど)、「琅玕珠」二つ(玉環の形で四分の一が欠ける)、「玉印」(半手ほどの大きさで鹿の理があり印の中に陥入する)、「皇后採桑鉤」(箸の先を曲げたような形)、「雷公石斧」(孔がない)、その他一つ、合わせて十三。日の中に置くと白い気が天に連なった。
- 元和中、文水の武士彠碑がその亀頭を失った。翰林院に鈴があり、夜中に文書が入ると鈴を引いて代わりに知らせたが、長慶中、河北で用兵があると夜ごとに自然に鳴り、軍中の情報の緩急と相応じ、音が急なら軍事が急、音が緩やかなら軍事も緩やかであった。資州に方一丈の石があり数畝も動いた。
- 大和三年(829年)、南蛮が成都を囲んだとき玉晨殿を毀って擂石としたところ吼えるような音が三度し止んだ。四年五月己卯、通化南北二門の鎖が開けられなくなり鍵を入れると持たれているようで、管を破ると門がようやく開いた。また浙西観察使の王璠が潤州の城隍を治めたとき、中から方形の石が出、彫られた文に「山に石あり、石に玉あり、玉に瑕あり、瑕すなわち休む」とあった。
- 廣明元年(880年)、華岳廟の玄宗御製の碑が隠々と音を立て数里に聞こえ旬を通して止まなかった(石が言うに近い)。
- 光化三年(900年)冬、武徳殿前の鐘の音が急にかすれた。天復元年九月、音がさらに小さく変わった。
常暘
- 武德三年(620年)夏、旱が八月まで続きようやく雨が降った。四年、春から雨が降らず七月まで続いた(雨は少陰の気であり、その気が毀れれば雨が降らない。少陰は金であり、金は刑・兵を表す。刑が無辜に及び兵が止まなければ金気が毀れ常に旱となる。火は盛陽であり陽気は強悍であるゆえ聖人は礼を制してこれを節したが、礼を失えば僭って驕り盛陽を導き、火が勝れば金が衰えるためこれも旱となる。五行では土が実に水を制するため土功が興れば水気が壅がれ、これも常に旱となる。天官では東井が水事を主り、天漢・天江もまた水の祥である。水と火は相い仇であり土に制せられるため、土・火の変異が現れ、あるいは日食の程度が過ぎても及ばず七曜が中道の南を循れば、いずれも旱の兆しである)。七年秋、関内・河東が旱となった。
- 貞観元年(627年)夏、山東で大旱。二年春、旱。三年春・夏、旱。四年春、旱(太上皇が譲位してからこの頃まで年ごとに水旱が続いた)。九年秋、剣南・関東の州二十四で旱。十二年、呉・楚・巴・蜀の州二十六で旱、冬、雨が降らず翌年五月まで続いた。十七年春・夏、旱。二十一年秋、陝・絳・蒲・夔等州で旱。二十二年秋、開・万等州で旱、冬、雨が降らず翌年三月まで続いた。
- 永徽元年(650年)、京畿の雍・同・絳等の十州で旱。二年九月、雨が降らず翌年二月まで続いた。四年夏・秋、旱で光・婺・滁・潁等州がとりわけひどかった。
- 顯慶五年(660年)春、河北の州二十二で旱。
- 總章元年(668年)、京師及び山東・江淮で大旱。二年七月、剣南の州十九で旱、冬、雪がなかった。
- 咸亨元年(670年)春、旱。秋、また大旱。
- 儀鳳二年(677年)夏、河南・河北で旱。三年四月、旱。
- 永隆二年(681年)、関中で旱・霜があり大飢饉となった。
- 永淳元年(682年)、関中で大旱となり飢饉となった。二年夏、河南・河北で旱。
- 永昌元年(689年)三月、旱。
- 神功元年(697年)、黄・隋等州で旱。
- 久視元年(700年)夏、関内・河東で旱。
- 長安二年(702年)春、雨が降らず六月まで続いた。三年冬、雪がなく翌年二月まで続いた。
- 神龍二年(706年)冬、雨が降らず翌年五月まで続き、京師・山東・河北・河南で旱・飢饉となった。
- 太極元年(712年)春、旱。七月にまた旱。
- 開元二年(714年)春、大旱。十二年七月、河東・河北で旱となり帝みずから宮中で雨を祈り壇席を設けて三日間曝された。九月、蒲・同等州で旱。十四年秋、諸道の州十五で旱。十五年、諸道の州十七で旱。十六年、東都・河南・宋亳等州で旱。二十四年夏、旱。
- 永泰元年(765年)春・夏、旱。二年、関内で大旱となり三月から雨が降らず六月まで続いた。
- 大曆六年(771年)春、旱が八月まで続いた。
- 建中三年(782年)、五月から雨が降らず七月まで続いた。
- 興元元年(784年)冬、大旱。
- 貞元元年(785年)春、旱で麦苗がなく八月まで続き旱が甚だしくなり灞水・滻水が涸れようとし井もみな水がなくなった。六年春、関輔で大旱となり麦苗がなく、夏、淮南・浙西・福建等道で大旱となり井泉が涸れ人は暍病や疫病に苦しみ死者が甚だ多かった。七年、揚・楚・滁・寿・澧等州で旱。十四年春、旱で麦がなかった。十五年夏、旱。十八年夏、申・光・蔡州で旱。十九年正月、雨が降らず七月甲戌にようやく雨が降った。
- 永貞元年(805年)秋、江浙・淮南・荊南・湖南・鄂岳陳許等州二十六で旱。
- 元和三年(808年)、淮南・江南・江西・湖南・広南・山南東西すべて旱。四年春・夏、大旱。秋、淮南・浙西・江西・江東で旱。七年夏、揚・潤等州で旱。八年夏、同・華二州で大旱。十五年夏、旱。
- 寶曆元年(825年)秋、荊南・淮南・浙西・江西・湖南及び宣・襄・鄂等州で旱。
- 大和元年(827年)夏、京畿・河中・同州で旱。六年、河東・河南・関輔で旱。七年秋、大旱。八年夏、江淮及び陝・華等州で旱。九年秋、京兆・河南・河中・陝華同等州で旱。
- 開成二年(837年)春・夏、旱。四年夏、旱で浙東がとりわけひどかった。
- 會昌五年(845年)春、旱。六年春、雨が降らず、冬もまた降らず翌年二月まで続いた。
- 大中四年(850年)、大旱。
- 咸通二年(861年)秋、淮南・河南で雨が降らず翌年六月まで続いた。九年、江淮で旱。十年夏、旱。十一年夏、旱。
- 廣明元年(880年)春・夏、大旱。
- 中和四年(884年)、江南で大旱となり飢饉となり人が互いに食んだ。
- 景福二年(893年)秋、大旱。
- 光化三年(900年)冬、京師で旱となり翌年四年(900年、光化年間)春まで続いた。
詩妖
- 竇建德がまだ敗れる前、「豆が牛の口に入れば、勢いは長くは続かない」という童謡が流行った。
- 貞観十四年(640年)、交河道行軍大総管の侯君集が高昌を討伐した。これに先立ちその国中に「高昌の兵馬は霜雪のよう、漢家の兵馬は日月のよう、日月が霜雪を照らせば、振り返れば自ずと消滅する」という童謡があった。
- 永徽以後、民は「武媚娘曲」を歌った。
- 調露の初め、京城の民謡に「側堂堂、橈堂堂」という言葉があった。太常丞の李嗣真は「側は不正、橈は不安を表す。隋以来、楽府に堂堂曲があるが、堂堂を再び言うのは唐が再び天命を受ける象である」と述べた。
- 永淳元年(682年)七月、東都で大雨があり多くの人が餓死した。これに先立ち「新しい稲が箱に入らず、新しい麦が場に入らず、八九月になれば、犬が空の垣墻に吠える」という童謡があった。
- 高宗は調露中に嵩山を封禅しようとしたが突厥の反乱にあい中止し、後に再び封禅しようとしたが吐蕃の侵入で止めた。当時「嵩山は幾層あるのか、登れないことは畏れず、ただ登れないことを恐れる、三度兵馬を徴し、傍らの道を打ち騰々と鳴らす」という童謡があった。
- 永徽末、里歌に「桑条韋也、女時韋也楽」というものがあった。
- 龍朔中、当時の人が飲酒の令として「子母相い去り離れ、連台拗り倒す」と言った(俗に杯盤を子母と呼び、また盤を台とも呼んだ)。また里歌に「突厥塩」というものがあった。
- 永淳以後、民は「楊柳楊柳漫頭駝」と歌った。
- 垂拱以後、東都に「契苾児歌」があり、いずれも淫らな歌詞であった(契苾は張易之の幼名)。
- 如意の初め、里歌に「黄麞黄麞、草の中に隠れ、弓を彎いてお前を傷つけよう」というものがあった。その後、王孝傑が黄麞谷で敗れた。
- 神龍以後、民謡に「山南に烏鵲の巣、山北に金の駱駝、鎌の柄に孔を鑿たず、斧の柄も施さず」というものがあった(山南は唐であり烏鵲の巣は人の住まいが少ないことを、山北は胡でありその金の駱駝は虜獲して重く積み込むことを表す)。安楽公主が洛州に安楽寺を建てたとき「哀れなり安楽寺、了了として樹頭に懸かる」という童謡があった。
- 景龍中、民謡に「黄い牸犢の子、挽く紖が断たれ、両足が地を踏み鞵𪎱が断たれ、城南の黄い牸犢の子、韋」というものがあった。また「阿緯娘歌」があった。当時さらに「哀れなり聖善寺、身に緑の毛衣を着け、牽いて河に飲ませに行けば、踏み殺す鯉魚の子」という謡もあった。
- 玄宗が潞州にいたとき「羊頭山の北に朝堂を作る」という童謡があった。
- 天寶中、術士の李遐周が玄都観の院廡の間に詩を書いた。「燕市の人はみな去り、函関の馬は帰らず、人は山下の鬼に逢い、環の上に羅衣を繋ぐ」。人々はみな理解しなかった(詩妖に近い)。また安禄山がまだ反する前、「燕燕天に飛び上がり、天上の女児は白氈を敷き、氈の上に千銭あり」という童謡があった。当時幽州にはさらに「昔は戴竿を誇っていたが、今は見るに堪えない、ただ五月を見よ、清水河のほとりに契丹を見る」という謡もあった。
- 徳宗の時、ある詩に「この水は涇水に連なり、双眸に血が川に満つ、青牛は朱虎を逐い、まさに太平の年と号す」というものがあった(詩妖に近い)。朱泚が敗れる二月前、「一本の箸、両端が朱、五、六月に、胆に化す」という童謡があった。
- 元和の初め、童謡に「麦を打て麦を打て三三三」というものがあり、身をひるがえして「舞い終えたぞ」と言った。
- 大中末、京師の子供が布を重ねて水に浸し日に向けて絞る遊びをして「拔暈」と呼んだ。
- 咸通七年(866年)、「草は青々として、厳霜を被る、鵲がようやく後れる、狂を見る」という童謡があった。十四年、成都の童謡に「咸通癸巳、出でて行く所なく、蛇去りて馬来たる、道路稍々開く、頭に片瓦なく、地に残灰あり」というものがあった。この年、歳陰は巳にあり翌年は午にあった。巳は蛇、午は馬である。
- 僖宗の時、「金色の蝦蟇が眼を努めて争い、翻って曹州は天下に反す」という童謡があった。
- 乾符六年(879年)、「八月霜なく寒草青く、将軍馬に騎り空城を出で、漢家の天子西に巡狩す、なお江東に向かい更に兵を索む」という童謡があった。
- 中和の初め、「黄巣走る、泰山の東、翁家の翁の許で死す」という童謡があった。
訛言
- 貞観十七年(643年)七月、民の間で「役人が棖棖を遣わして人を殺し天狗に祭る」という噂が流れた。棖棖は来るとき身に狗の皮を着け鉄の爪を持ち、暗闇の中で人の心肝を取って去るという。人々は互いに震え怖れ夜ごとに驚き騒ぎ、みな弓剣を引いて自ら防ぎ、武器のない者は竹を削って作り、郊外を独りで歩く者はいなくなった。太宗はこれを憎み、一晩中諸坊の門を開かせ宣旨で慰諭し、一月余りでようやく止んだ。
- 武后の時、民が酒を飲み謳歌して曲が終わっても尽きないことを「族塩」と呼んだ。
- 開元二十七年(739年)十月、東都の明堂を改築したとき「役人が小児を捕らえて明堂の下に埋め厭勝とする」との噂が流れた。村野の子供は山谷に隠れ、都城は騒然とし兵が至るとの噂も流れた。玄宗はこれを憎み使者を遣わして慰諭させ、久しくしてようやく止んだ。
- 天寶三載(744年)二月辛亥、月のような星が東南に墜ち、墜ちた後に音がした。京師では「役人が棖棖を遣わして人を捕らえ肝を取って天狗に祭る」との噂が流れ、人々はかなり恐れ畿内でとりわけひどく、使者を遣わして安んじ諭させた(貞観十七年の占いと同様である)。
- 天寶以後、詩人は多く憂苦・流寓の思いを詠み、江湖・僧寺に興を寄せた。楽曲もまた辺地の名を冠したものが多く、伊州・甘州・涼州などがあり、その曲の遍・繁声に至るものをみな「入破」と呼んだ。また胡旋舞があり、もと康居から出て旋転の敏捷さを巧みとし、当時尚ばれた(破は砕けることを意味する)。
- 建中三年(782年)秋、江淮に「毛人がその心臓を食う」という噂が流れ人心は大いに恐れた。朱泚が僭号したのち、その旧邸を「潜龍宮」と名づけ内府の珍貨を移してこれを満たした。占者は易に「潜龍勿用」とあるのはこれ敗祥であると考えた。
- 大和九年(835年)、京師で「鄭注が皇帝のために金丹を合成しようとし小児を生きたまま心肝を取っている」との噂が流れ、密旨で小児を捕らえること数えきれなかった。しばしば陰で「某所で幾人かの子が失われた」と語り合った。方士は金丹によって神仙に至ると言うが、これは荒唐無稽の言葉であり、信じて服用すれば発熱して多く死ぬので戒めとすべきものであった。小児は無辜の者であり心肝を取るのは殺戮の象である。
- 劉従諫がまだ死んでいなかったとき、潞州に狂人がいて市で腰を折って「石雄が七千人を率いて至る」と叫んだ。従諫はこれを捕らえて斬った。
- 咸通十四年(873年)秋、成都で「猫の妖が夜に人家に入る」との噂が流れ民はみな恐れ夜は集まって座した。ある者が「某家に鬼を見た、その目は光り灯火のようだ」と言うと民はいよいよ恐れた。
- 黄巣がまだ京師に入らないとき、都の人々は黄米と黒豆の屑を蒸して食べ「黄賊が黒賊を打つ」と言った。僖宗の時、里巷で争う者が怒って「試しに右廂の天子に見えてみよ」と言った。
毛蟲之孽
- 永徽中、河源軍に狼が三匹おり昼に軍門に入ったため射て斃した。
- 永淳中、嵐・勝州で兎が稼を害し千万を数える群れをなし苗を食い尽くしてから兎も見えなくなった。
- 開元三年(715年)、熊が昼に揚州城に入った。
- 乾元二年(759年)十月、百官に勤政楼に上って安西の兵が陝州へ赴くのを見させたとき、狐が楼上に出てこれを捕らえた。
- 大曆四年(769年)八月己卯、虎が京師長寿坊の宰臣元載の家廟に入り射殺された(虎は西方の属で威猛にして噛みつくもの、刑戮の象である)。六年八月丁丑、太極殿の内廊で白兎が捕らえられた(占いは「国に憂いがある。白は喪の兆し」)。
- 建中三年(782年)九月己亥の夜、虎が宣陽里に入り二人を傷つけ翌朝捕らえられた。
- 貞元二年(786年)二月乙丑、野鹿が含元殿の前に来て捕らえられ、壬申にもまた鹿が含元殿の前に来て捕らえられた(占いは「大喪がある」)。四年三月癸亥、鹿が京師の西市門に来て捕らえられた。
- 開成四年(839年)四月、麞(のろじか)が太廟に出て捕らえられた。
犬禍
- 武德三年(620年)、突厥の処羅可汗が侵攻しようとしたとき、夜に犬の吠える群れの声が聞こえたが姿は見えなかった。
- 武后の初め、酷吏の丘神勣の家の犬が首のない子を生み、項に口のような孔があり昼夜鳴き吠えていたが、やがて所在を失った。
- 神功元年(697年)、安国が頭が二つある犬を献じた(頭が多いのは上が一つでない象)。
- 天寶十一載(752年)、李林甫が朝の身支度をして書袋を見ると中に鼠のような物がおり、地に躍り出ると犬に変わり、大きく雄々しい目で牙をむいて林甫を見た。林甫がこれを射ると命中し、殺という音がして矢とともに消えた。
- 貞元七年(791年)、趙州柏郷の民の李崇貞の家の黄犬が子牛に乳を与えた。
- 會昌三年(843年)、定州深沢の令の家の犬に角が生えた。
- 大中の初め、犬に角が生えた(京房は「正を執る者が害されようとする応である」という。また「君子が危陥するとき犬に角が生ずる」ともいう)。
- 咸通中、会稽で吠えられない犬が生まれ、打っても声が出なかった(犬の職は吠えて守ることにあり、それができないのは鎮守する者が寇を防げない兆しを象る)。
- 成汭が荊南節度使であったとき、城中の犬がみな夜に吠え、占者の向隠は城郭が丘墟になろうとする兆しと考えた。
- 中和二年(882年)秋、丹徒で犬と豚が交わった(占いは「諸侯に国を害しようと謀る者がある」)。
白眚白祥
- 調露元年(679年)十一月壬午、秦州神亭冶の北で霧が開けて日の出のように輝き、白い鹿・白い狼が現れた(白祥に近い)。
- 神龍二年(706年)四月己亥、越州の鄮県で毛の雨が降った(占いは「邪人が進み賢人が遁れる」)。
- 大曆二年(767年)七月甲戌、日の入り時に白い気が天を亙った。九月戊午の夜、白霧が西北から起こり天を亙った。五年五月甲申、西北に白い気が天を亙った。
- 貞元二十年(804年)九月庚辰の甲夜、白い気が八つ現れ東西の天際に届いた。
- 大和三年(829年)八月、西方に柱のような白い気があった。七年十月己酉、西方にまた柱のような白い気が三つあった。
- 光啟二年(886年)四月、頭が黒く髪のような白い気が東南から入り揚州で消えた。
- 光化二年(899年)三月乙巳、日の中に白い気が天を亙り西南から東北に貫いた。
- 天復元年(901年)八月己亥、西方に靴底のような形の白雲があり、中から匹練のような白い気が出て長さ五丈、天を衝いて三つの彗のように分かれ先端が下垂した(占いは「天下に兵がある。白は戦の兆しである」)。
木沴金
- 神龍中、東都白馬寺の鉄像の頭が理由もなく殿門外に落ちた。
- 天寶五載(746年)四月、宰臣の李適之が常に鼎に食膳を具えていたが、夜中に鼎が躍り出て互いに闘って解けず鼎の耳及び足がみな折れた。