新唐書卷三十四 志第二十四 五行一

五行の学の由来

  • 万物は天地の間に満ちているが、そのうちで最も大きく多いものが五つある。水・火・木・金・土である。人がこれを用いなければ生きていけず、一つも欠くことができないため、聖王はこれを重んじた。この五物は、天に現れれば五星、地に配せられれば五方、四時に行われれば五徳、人に稟けられれば五常、音律に播けば五声、文章に発すれば五色となり、その精気の働きを総じて「五行」という。
  • 三代以後、数術の士が現れ、災異の学を説く者は極端にその説を広げ、天地万物の動植すべてを五物のいずれかに類推してあてはめ「五行の属」と称した。人は五行の全気を稟けて生まれるゆえに万物の中で最も霊妙であり、その他の動植物はそれぞれ気の偏ったものを得ているにすぎないが、その発する英華・美実・気臭滋味・羽毛鱗介・文采剛柔もまた一気の盛んなるものを得ているとし、その本性を失って変怪をなす場合には事の類によって吉凶を推すが、その説はことに委曲繁密である。
  • そもそも王者が天下を有つのは、天地に順って人を治め、万物から材を取って用を足すことにある。もし政が道を得て、取ることが度を過ぎなければ、天地は順って成り万物は茂り民は安楽で、これを「至治」という。もし政が道を失い、物を用いて夭を傷つければ、民はその害を被って愁苦し、天地の気が沴(そこな)われて三光が乱れ運行し、陰陽寒暑が節を失い、水旱・蝗螟・風雹・雷火・山崩・水溢・泉竭・雪霜が時ならぬこと、雨がその物にあらざること、あるいは氛霧・虹蜺・光怪の類として発する。これらの天地の災異の大きなものは、みな乱政から生ずる。その発するところを考え人事に照らせば、しばしばその失うところに近く、類をもって至る。しかし時には推しても合わないことがあるのは、天地の大きさにおのずと知りえないところがあるためであろうか。その他の物の種類は数えきれず、下は細微な家人里巷の占に至るまで、人事に考えて合うものもあれば、漠然として応じないものもあり、いずれも取るに足らない。
  • 論語に「迅雷風烈には必ず変ず」とある。君子が天を畏れるのは、物に反常の変があるのを見てその本性を失ったならば、それを招いた理由を思って戒懼するためで、微細でもおろそかにしないのである。しかし災異の学をなす者はそうではなく、事にことよせて応であるとし、合いがたければ牽強付会してその説に遷就する。漢儒の董仲舒、劉向とその子の劉歆の輩は、みな春秋・洪範を学として、聖人の本意を失った。その通じないところに至っては、父子の言さえ互いに矛盾する。嘆かわしいことである。昔、箕子が周の武王のために陳べた洪範の書は、その事を条にして九類とし、その説を別けて九章とし「九疇」と呼んだ。その説を考えると本来相互に付属するものではないのに、劉向は五行伝を作るにあたり、五事・皇極・庶徴を五行に付会した。八事がみな五行に属するとするなら、八政・五紀・三德・稽疑・福・極の類にも及ぶはずだがそれはできない。ここに至って洪範の書はその倫理を失ってしまった。牽強付会して説を遷就するというのはこのことである。しかし漢以来、これを非とする者はいなかった。またその祥・眚・禍・痾の説は数術の学から出たものであるため、おおよそこれを存し、深識博聞の士がこれを考えて択ぶことを期したい。
  • そもそも「災」とは物に被って知ることのできるもので、水旱・螟蝗の類がこれにあたる。「異」とは、そうなる所以を知りがたいもので、日食・星孛・五石・六鷁の類がこれにあたる。孔子は春秋において災異を記して事応を著さなかった。これは慎んでのことである。天道は遠く、諄々として人を諭すものではなく、君子はその変を見て天が譴告するゆえんを知り、恐懼脩省するのみと考えたからである。もし事応を推せば、合うこともあれば合わないこともあり、同じこともあれば同じでないこともある。合わず同じでなければ君子を怠らせ、偶然として懼れなくさせてしまう。これが聖人の深意である。聖人が慎んで語らなかったのはこのためであるのに、後世はなお曲説をもって天意を臆測しており、これは伝えるべきではない。そこで武徳以来を考え次いで、おおよそ洪範五行伝によってその災異を著し、その事応は削ることとする。

木不曲直

五行伝に「田猟に節度なく、飲食を享とせず、出入に節なく、民の農時を奪い、また姦謀があれば、木は曲直せず」とある。草木の生育が暢茂せず折れ枯れが多く、変怪をなしてその本性を失うことをいう。また「貌の不恭、これを不粛という。その咎は狂、その罰は常雨、その極は凶。時には服妖があり、時には亀孽があり、時には雞禍があり、時には下体が上に生ずる痾があり、時には青眚青祥・鼠妖があり、これを金が木を沴うという」とある。

  • 武德四年(621年)、亳州の老子祠の枯れ木が枝葉を生じ復活した(老子は唐の祖にあたる。占いは「枯れ木が復活するのは権臣が政を執る兆し」。眭孟はこれを天命を受ける者があるしるしとした)。九年三月、順天門楼の東柱がすでに傾き倒れていたのに自然に起き上がった(占いは「木が倒れて自然に起き上がるのは国の災い」)。
  • 永徽二年(651年)十一月甲申、陰霧が樹木を凍らせ数日解けなかった(劉向は木は少陽で貴臣の象という。この人に害があろうとするとき、陰気が木を脅かし先に寒くなり、雨を得て氷となる。これを「樹介」ともいい、介は兵の象である)。
  • 顯慶四年(659年)八月、毛桃の樹が李の実をつけた(李は国姓。占いは「木が異なる実を生ずるのは国主に殃がある」)。
  • 麟德元年(664年)十二月癸酉、氛霧が終日解けず、甲戌、木に氷雨が降った。
  • 儀鳳三年(678年)十一月乙未、昏霧が四方を塞ぎ夜通し解けず、丙申、木に氷雨が降った。
  • 垂拱四年(688年)三月、台州に桂の実の雨が降り旬余り続いた(占いは「天が草木を雨らすのは人が多く死ぬ兆し」)。
  • 長壽二年(693年)十月、萬象神宮の側の檉杉がみな柏に変わった(柏は四時を貫き柯を改め葉を変えないため士君子の操をもち、檉杉は柔脆で小人の性である。小人が君子の位にいる象)。
  • 延載元年(694年)十月癸酉、白霧があり木に氷雨が降った。
  • 景龍四年(710年)三月庚申、木に氷雨が降った。
  • 景雲二年(711年)、高祖の旧邸にあった柿の木が天授年間から枯死していたが、この頃再び生えた。
  • 開元二十一年(733年)六月、蓬州の枯れた楊の木が李の枝を生じ実がついた(顯慶年間の毛桃が李を生じたのと同様)。二十九年、亳州の老子祠の枯れ木が再び栄えた。この年十一月己巳、寒さ甚だしく木に氷雨が降り数日解けなかった。
  • 永泰元年(765年)三月庚子、夜霜が降り木に氷が張った。
  • 大曆二年(767年)十一月、雪のような霧があり草木が氷った。九年、晉州神山県の慶唐観の枯れた檜が再び生えた。
  • 興元元年(784年)春、亳州真源県に李の樹があり植えて十四年になるが、長さ一尺八寸のところから枝が急に上に伸び高さ六尺、周囲は蓋のように九尺余りとなった(李は国姓。占いは「木の枝が高く伸びるのは国に寇盗がある」)。この年、中書省の枯れた柳が再び栄えた。
  • 貞元元年(785年)十二月、木に氷雨が降った。四年正月、陳留に木の雨が降り十里ほどに及び指の太さで長さ一寸余り、中は空洞で、下ったものは立ったように植わった(木が下に生じて上から隕ちるのは上下が位置を易える象。砕けて中が空なのは小人の象。植わったように立つのは自立の象である)。二十年冬、木に氷雨が降った。
  • 元和十五年(820年)九月己酉、大雨があり木が風もないのに折れるものが十のうち五、六に及んだ(木が自ら抜けるのを近くは木自拔という。占いは「木が自ら抜けるのは国が乱れようとする兆し」)。
  • 長慶三年(823年)十一月丁丑、木に氷雨が降った。成都の栗の木が実を結び食べると李のような味であった。
  • 寶曆元年(825年)十一月丙申、木に氷雨が降った。
  • 大和三年(829年)、成都の李の木が木瓜を生じ中身が空で実がならなかった。七年十二月丙戌、夜霧があり木に氷が張った。
  • 開成四年(839年)九月辛丑、雪が降り木に氷が張った。十月己巳もまた同様であった。
  • 會昌元年(841年)十二月丁丑、木に氷雨が降った。四年正月己酉、木に氷雨が降った。庚戌もまた同様であった。
  • 咸通十四年(873年)四月、成都の李の実が木瓜に変わった(当時の人は、李は国姓であり、変わるのは国が人に奪われる象と考えた)。
  • 廣明二年(881年)春、眉州の檀の木がすでに枯れ倒れていたが、一夜にして再び生えた。

常雨

  • 武德六年(623年)秋、関中で長雨が続いた(少陽を暘、少陰を雨という。陽徳が衰えれば陰気が勝るゆえ常雨となる)。
  • 貞観十五年(641年)春、霖雨。
  • 永徽六年(655年)八月、京城で大雨。
  • 顯慶元年(656年)八月、霖雨、九十日を経てようやく止んだ。
  • 開元二年(714年)五月壬子、長雨で京城の門に禜祭を行った。十六年九月、関中で長雨が稼を害した。
  • 天寶五載(746年)秋、大雨。十二載八月、長雨。十三載秋、大霖雨が稼を害し六十日止まなかった。九月、坊市の北門を閉じ井を蓋い、婦人が街市に入るのを禁じ、玄冥・太社を祭り明徳門に禜祭を行い、京城の垣屋がほとんど壊れ人も食に乏しくなった。
  • 至德二載(757年)三月癸亥、大雨が甲戌まで続いてようやく止んだ。
  • 上元元年(760年)四月、雨が閏月まで止まなかった。二年秋、霖雨が連月に及び渠竇に魚が生じた。
  • 永泰元年(765年)九月丙午、大雨が丙寅まで続いた。
  • 大曆四年(769年)四月、雨が九月まで続き坊市の北門を閉じ土台を築いて壇を設け黄幡を立てて晴れを祈った。六年八月、連雨が秋の稼を害した。
  • 貞元二年(786年)正月乙未、大雪が庚子まで続き平地数尺に及び雪の上が黄黒で塵のようであった。五月乙巳、雨が丙申まで続いた。当時大飢饉で麦がまさに実ろうとしていたところにまた大霖雨があり人心が恐懼した。十年春、雨が閏四月まで続き止むのは一、二日にすぎなかった。十一年秋、大雨。十九年八月己未、大霖雨。
  • 元和四年(809年)四月、皇太子寧を冊立するにあたり雨に服が濡れ中止となった。十月、再び日を選んで冊立しようとしたがまた雨で中止となった(近くは常雨の兆し)。六年七月、霖雨が稼を害した。十二年五月、連雨。八月壬申、雨が九月戊子まで続いた。十五年二月癸未、大雨。八月、長雨で坊市の北門を閉じた。宋・滄・景等州で大雨が六月癸酉から丁亥まで続き廬舎がほとんど流された。
  • 寶曆元年(825年)六月、雨が八月まで続いた。
  • 大和四年(830年)夏、鄆・曹・濮等州で雨があり城郭・廬舎がほとんど壊れた。五年正月庚子朔、京城で陰雪が旬を通して続いた。
  • 開成五年(840年)七月、霖雨があり文宗を葬るとき龍輴が陥って進めなかった。
  • 大中十年(856年)四月、雨が九月まで続いた。
  • 咸通九年(868年)六月、長雨で明徳門に禜祭を行った。
  • 乾符五年(878年)秋、大霖雨があり汾水・澮水及び黄河が溢れて稼を害した。
  • 廣明元年(880年)秋八月、大霖雨。
  • 天復元年(901年)八月、長雨。

服妖

  • 唐初、馬に乗る宮人は周の旧儀により羃䍦(かぶりもの)を用い全身を覆い隠していたが、永徽以後は帷帽を用い裙を頸まで施し、かなり露出が多くなり、神龍末には羃䍦がついに絶えた(いずれも婦人が政事にあずかる兆しとされた)。
  • 太尉の長孫无忌は烏羊毛で渾脱氈帽を作り、人々が多くこれを真似て「趙公渾脱」と呼んだ(服妖に近い)。
  • 高宗がかつて内宴を催した際、太平公主が紫衫・玉帯・皂羅の折上巾を着け紛礪七事を具え帝の前で歌舞した。帝は武后とともに笑って「女子は武官になれないのに、なぜこの装束か」と言った(服妖に近い)。
  • 武后の時、寵臣の張易之が母の臧のために七宝の帳を作り、魚龍鸞鳳の形を施し、さらに象牀・犀簟を作った。
  • 安樂公主は尚方に命じて百鳥の毛を織り合わせた二つの裙を作らせ、正視すれば一色、傍らから見れば一色、日中では一色、影の中では一色に見え、しかも百鳥の姿がみな現れるようにし、その一つを韋后に献じた。公主はまた百獣の毛で韀面を作り、韋后も鳥毛を集めてこれを作らせ、いずれも鳥獣の姿を具えて工費は巨万に及んだ。公主が初めて降嫁したとき、益州は単糸の碧羅の籠裙を献じ、金糸で花鳥を縷め、細さは髪のようで大きさは黍粒ほどながら眼・鼻・觜・爪までみな備わり、じっと見てようやく見えるほどであった(いずれも服妖である。自ら毛の裙を作ってからは貴臣富家が多くこれを真似、江・嶺の珍しい禽獣の毛羽がほとんど採り尽くされた)。
  • 韋后の妹はかつて豹頭の枕で邪を辟け、白澤の枕で魅を辟け、伏熊の枕で男子を授かろうとした(これも服妖である)。
  • 景龍三年(709年)十一月、郊祀にあたり韋后が亜献となり、婦人を斎娘として祭祀の服を着けて事にあたらせた(服妖に近い)。
  • 中宗は宰臣の宗楚客らに巾子様(頭巾の型)を賜ったが、その形は高く前に傾いており、これは帝が藩邸にいた時にかぶっていた冠であったため、当時の人は「英王踣(英王のうつむき冠)」と呼んだ(踣は前に倒れることをいう)。
  • 開元二十五年(737年)正月、道士の尹愔が諫議大夫となり道士の服を着て政務を執った(これも服妖である)。
  • 天寶の初め、貴族・士民が好んで胡服・胡帽を着け、婦人は歩揺釵を簪し衿袖を窄く小さくした。楊貴妃は常に付け髪を首飾りとし黄色い裙を好んで着けた(服妖に近い)。当時の人は「義髻河に抛たれ、黄裙水に逐って流る」という言葉を作った。
  • 元和末、婦人は円鬟椎髻を結い鬢飾りをせず朱粉も施さず、烏膏で唇に紅をさし悲しみ泣いているような姿をした(円鬟は上に自ら結わないこと、悲しみ泣くようなのは憂恤の象である)。
  • 文宗の時、呉・越の間で高頭の草履が織られ、綾縠のように繊細で前代になかったものであった(履は下等の物であり、草を織って作りながら文飾を施すのは陰が斜に僭上する泰侈の象である)。
  • 乾符五年(878年)、洛陽の人々が帽子を作ったが、いずれも冠軍(近衛の武官)がかぶるものであった。また内臣の中に木を刻んで頭の形を作り幞頭の裏に入れる者があり、百官がこれを真似て木を彫る工房が市のように賑わい、木を斫るときには「これは尚書の頭を斫る、これは将軍の頭を斫る、これは軍容使の頭を斫る」と言った(服妖に近い)。
  • 僖宗の時、内人は髪を極めてきつく束ね、成都に在ってからは蜀の婦人もこれを真似て「囚髻」と呼んだ。
  • 唐末、京都の婦人は髪を梳って両鬢が顔を抱くようにし、椎髻のような形にしてこれを「拋家髻」と呼んだ。また世俗では琉璃を釵釧に用いることが尊ばれた(服妖に近い。「拋家」「流離」はいずれも遷播の兆しである)。
  • 昭宗の時、十六宅の諸王が華美奢侈を競い合い巾幘をそれぞれ独自の形にし、都の人々がこれを真似て「私に某王の頭を作ってくれ」と言った(識者はこれを不祥とした)。

龜孽

  • 大足初年、虔州で亀が獲られ六つの眼を持ち一夜で消え失せた。
  • 肅宗上元二年(761年)、鼉(わに)が揚州の城門に集まった。節度使の鄧景山が族弟の珽に問うと「鼉は介物であり兵の象です」と答えた。
  • 貞元三年(787年)、潤州の魚鼈が江を蔽って流れ下り、いずれも首がなかった。
  • 大和三年(829年)、魏博の管内に亀のような形の虫がいて昼夜鳴き止まなかった(亀孽に近い)。
  • 秦宗権が蔡州にいたとき、州中の地が突然裂けて石が出、高さ五、六尺、広さ丈余りでちょうど大亀のようであった。

雞禍

  • 垂拱三年(687年)七月、冀州の雌鶏が雄に変じた。
  • 永昌元年(689年)正月、明州の雌鶏が雄に変じた。八月、松州の雌鶏が雄に変じた。
  • 景龍二年(708年)春、滑州匡城県の民家の鶏に三本足のものがいた(京房易妖占に「君が婦人の言を用いれば鶏が妖を生ずる」とある)。
  • 玄宗は闘鶏を好み、貴臣・外戚もこぞってこれを尚び、貧者は木の鶏を弄ぶこともあった(識者は、鶏は酉に属し帝の生まれ年にあたり、闘うのは兵の象であると考えた。雞禍に近い)。
  • 大中八年(854年)九月、考城県の民家の雄鶏が雌に変じ卵を抱きながら雄のように鳴いた(雌に変じるのは王室が卑しくなろうとする象であり、雌に伏すのはこれと逆の兆し。漢の宣帝の時、雌鶏が雄に変じ元帝の代に至って王氏が興る萌芽となったのは、この禍を馴致したものであった)。
  • 咸通六年(865年)七月、徐州彭城の民家の鶏に角が生えた(角は兵の象、鶏は小畜で賤しい類にあたる)。

下体生上之痾

  • 咸通十四年(873年)七月、宋州襄邑で猟師が雉を捕らえたところ五本の足があり、三本は背から出ていた(足が背から出るのは下が上を犯す象、五本足は多くの意)。

青眚青祥

  • 貞観十七年(643年)四月、晋王を太子に立てたとき、東宮の殿に青気が繞った(冊命が始まったばかりで妖気があるのは不祥である)。十八年六月壬戌、幅六尺の青黒い気が辰・戌にかけて天を貫くほど長く現れた。
  • 大和九年(835年)、鄭注の箱の中の薬が数万の蠅に変わって飛び去った(注はもと薬術で進んだ者であり、蠅に変わるのは敗死の象である。青眚に近い)。
  • 乾元三年(760年)六月、夕暮れ、西北に青い気が三つ現れた。

鼠妖

  • 武德元年(618年)秋、李密・王世充が洛水を隔てて対峙していたとき、密の陣営の鼠が一夜で川を渡ってみな去った(占いは「鼠が理由なくみな夜に去るのは邑に兵がある兆し」)。
  • 貞観十三年(639年)、建州で鼠が稼を害した。二十一年、渝州で鼠が稼を害した。
  • 顯慶三年(658年)、長孫无忌の邸に大鼠が庭に現れ月余りの間出入りしていたが、後に忽然と死んだ。
  • 龍朔元年(661年)十一月、洛州で猫と鼠が同じ所にいた(鼠は隠伏して盗みを象り、猫は捕らえ噛む職にあるのに逆に鼠と同じくいるのは、盗みを司る者が職を廃して姦を許す象である)。
  • 弘道初年、梁州の倉に大鼠がおり長さ二尺余り、猫に噛まれると数百の鼠が逆に猫を噛み、しばらくして万余りの鼠が集まり、州が人を遣わして捕らえ殺すと残りはみな去った。
  • 景雲中、右威衛の営の東街の槐の木で蛇と鼠が闘い、蛇が鼠に傷つけられた(闘うのは兵の象)。
  • 景龍元年(707年)、基州で鼠が稼を害した。
  • 開元二年(714年)、韶州で鼠が稼を害し千万を数える群れをなした。
  • 天寶元年(742年)十月、魏郡で猫と鼠が同じ乳を飲んでいた(同乳は同処よりさらに甚だしい異常)。
  • 大曆十三年(778年)六月、隴右節度使の朱泚が兵家から猫と鼠が同乳している様を得て献上した。
  • 大和三年(829年)、成都で猫と鼠が互いに乳を与え合った。
  • 開成四年(839年)、江西で鼠が稼を害した。
  • 咸通十二年(871年)正月、汾州孝義県の民家で鼠が多く蒿や芻を銜えて木の上に巣を作った(鼠は穴に居るものが穴を去って木に登るのは賤しい者が貴くなろうとする象)。
  • 乾符三年(876年)秋、河東の諸州で鼠が多く出て屋に穴を開け衣を壊し三月で止んだ(鼠は盗みを表し、天は「まさに盗みがあろう」と戒めるものである)。
  • 乾寧末年、陝州で蛇と鼠が南門の内で闘い、蛇は死んで鼠は逃げ去った。

金沴木

  • 武德元年(618年)八月戊戌、突厥の始畢可汗の衙帳が理由なく自然に壊れた。
  • 中宗の即位にあたり、金鶏竿が折れた(鶏竿を樹てるのは赦を行うためであり、大号を発したばかりで鶏竿が折れるのは不祥である)。
  • 神龍中、群狐が御史大夫の李承嘉の邸に入り、その堂が理由なく壊れ、また筆を執ると管が直ちに裂け、取り替えてもまた裂けた。
  • 開元五年(717年)正月癸卯、太廟の四室が壊れた。
  • 天寶十四載(755年)十二月、哥舒翰が軍を率いて潼関を守り前軍が出発したとき、牙門の旗が坊門に至って槍の刃に触れて落ち、人々は不祥と思った。
  • 永泰二年(766年)三月辛酉、中書省の勅庫が壊れた。
  • 貞元四年(788年)正月庚戌朔、徳宗が含元殿で朝賀を受けたが、夜明けに殿の階段及び欄檻三十余間が自然に壊れ衛士十余人が死んだ(含元殿は大朝会が行われる路寝であり、正月朔は一年の元にあたる。王者の事において天が戒める意は重大である)。
  • 大和九年(835年)、鄭注が鳳翔節度使となり赴任するとき開遠門を出たところで旗竿が折れた。
  • 光啟初年、揚州府署の門屋が自然に壊れた(もと隋の行台の門であり、その制度は甚だ宏麗であったという)。

五行伝に「法律を棄て、功臣を逐い、太子を殺し、妾を妻とすれば、火は炎上せず」とある。火がその性を失って災いをなすことをいう。京房易伝に「上が倹約せず下が節せねば、火事がしばしば起こり宮室を焼く」とある。火は礼を主るという。また「視ることの不明、これを不哲という。その咎は舒、その罰は常燠、その極は疾。時には草妖があり、時には羽虫の孽があり、時には羊禍があり、時には目痾があり、時には赤眚赤祥があり、これを水が火を沴うという」とある。

火不炎上

  • 貞観四年(630年)正月癸巳、武徳殿北院で火事があった。十三年三月壬寅、雲陽で石が燃え方丈にわたり、昼は灰のようで夜は光を放ち、草木を投げ入れると燃え、数年経ってようやく止んだ(火がその性を失い金を沴うものである)。二十三年三月、甲弩庫で火事があった。
  • 永徽五年(654年)十二月乙巳、尚書司勲庫で火事があった。
  • 顯慶元年(656年)九月戊辰、恩州・吉州で火事があり倉廩・甲仗・民家二百余家を焼いた。十一月己巳、饒州で火事があった。
  • 證聖元年(695年)正月丙申の夜、明堂で火事があり、武太后は正殿を避け楽を撤しようとした。宰相の姚璹は「火は人によるもので天災ではありません。貶損すべきではありません」と言った。后は端門に出て酺を観、建章宮の故事を引いて明堂を再建しこれを厭勝させた。この年、内庫でも火災があり二百余区を焼いた。
  • 萬歲登封元年(696年)三月壬寅、撫州で火事があった。
  • 久視元年(700年)八月壬子、平州で火事があり千余家を焼いた。
  • 景龍四年(710年)二月、東都の凌空観で火災があった。
  • 開元五年(717年)十一月乙卯、定陵の寝殿で火事があった。この年、洪州・潭州で火災があり州署に延焼し、州の人は赤い物が暾々として飛んで来るのを見た直後に火が発したという。十五年七月甲戌、興教門楼の柱に火災があった。この年、衡州で火災があり三百余家に延焼し、州の人は甕ほどの大きさの物が赤い提灯のように見えると火が発したという。十八年二月丙寅、大雪の後にわかに雷が鳴り左飛龍廏で火事があった(占いは「天火が廐を焼くのは兵が大いに起こる兆し」)。十月乙丑、東都宮の仏光寺で火事があった。
  • 天寶二年(743年)六月、東都の応天門観で火災があり左右延福門に延焼し一日中消えなかった(京房易伝に「君が道を思わなければ天火がその宮室を焼く」とある)。九載三月、華岳廟で火災があり、当時帝は西岳を封禅しようとしていたが廟の火災でこれを止めた。十載八月丙辰、武庫で火災があり兵器四十余万を焼いた(武庫は甲兵の本である)。
  • 寶應元年(762年)十二月己酉、太府左蔵庫で火事があった。
  • 廣德元年(763年)十二月辛卯の夜、鄂州で大風があり火が江中から発し舟三千艘を焼き岸上の民家二千余家に及び死者数千人に及んだ。
  • 大曆十年(775年)二月、荘厳寺の浮図で火災があった。はじめ疾風と震雷があり、やがて火が浮図の中から出た。
  • 貞元元年(785年)、江陵度支院で火事があり江東の租賦百余万を焼いた。十三年正月、東都尚書省で火事があった。十九年四月、家令寺で火事があった。
  • 二年七月、洪州で火事があり民家一万七千家を焼いた。元和七年六月、鎮州甲仗庫で火災があり主吏で死罪となった者が百余人に及んだ。八年、江陵で大火があった。十一年十一月甲戌、元陵で火事があった。李師道が鄆州に宮室を築いて謀反を企てていたが、完成すると火事があった。
  • 大和二年(828年)十一月甲辰、禁中の昭德寺で火事があり宣政の東垣及び門下省に延焼し宮人の死者が数百人に及んだ。三年十月癸丑、仗内で火事があった。四年三月、陳州・許州で火事があり万余家を焼いた。十月、浙西で火事があった。十一月、揚州海陵で火事があった。八年三月、揚州で火事があった(いずれも民家千区を焼いた)。五月己巳、飛龍神駒中厩で火事があった。十月、揚州の市で火事があり民家数千区を焼いた。十二月、禁中の昭成寺で火事があった。
  • 開成二年(837年)六月、徐州で火事があり民家三百余家に延焼した。四年十二月乙卯、乾陵で火事があった。丁丑晦、揚州の市で火事があり民家数千家を焼いた。
  • 會昌元年(841年)五月、潞州の市で火事があった。三年六月、西内の神龍寺で火事があった。万年県の東市でも火事があり廬舎が多く焼けた。六年八月、武宗を葬るとき、辛未、霊駕が三原県に次いだ夜大風があり行宮の幔城で火事があった。
  • 乾符四年(877年)十月、東都の聖善寺で火事があった。
  • 大順二年(891年)六月乙酉、幽州の市楼で火災があり数百歩に及んだ。七月癸丑の甲夜、汴州の相国寺の仏閣で火災があった。この日の暮れ、小雨と雷電があり、赤い塊が門譙の藤網の中を転がるのが見え、一周すると火が発した。しばらくして赤い塊が北に飛び仏閣の藤網の中を転がり、これも一周すると火が発した。やがて大雨が急に降り平地に数尺の水が溜まったが火はますます盛んになり民家に延焼し三日消えなかった。

常燠

  • 天寶元年(742年)冬、氷が張らなかった(先儒は陰が節を失う象とした。また「罪を知りながら誅せねば、その罰は燠。夏には暑さが人を殺し、冬には物が実る」という。寒いはずの時に逆に暖かいのは、刑すべきを賞する象である)。
  • 貞元十四年(798年)夏、大いに暖かかった。
  • 元和九年(814年)六月、大いに暖かかった。
  • 長慶二年(822年)冬、雪が少なく水が凍らず草木が正月のように芽吹いた。
  • 廣明元年(880年)十一月、仲春のように暖かかった。

草妖

  • 武德四年(621年)、益州が人の形をした霊芝を献じた(占いは「王の徳が衰えようとし、下の者が起ころうとするとき、木が人の形に生える」とする。草も木の類である)。
  • 景龍二年(708年)、岐州郿県の民の王上賓の家に高さ三尺余り、幅一尺余り、厚さ二分の苦蕒菜が生えた(草妖に近い)。三年、宮中でニンニクが供され上に重ねてニンニクが生えていた(ニンニクは悪しき草であり重ねて生えるのはその類が多いことを示す)。四年、京畿の藍田山の竹の実が麦のようであった(占いは「大飢饉」)。
  • 開元二年(714年)、終南山の竹に花が咲き実が麦のようになった。嶺南も同様で竹はみな枯死し、この年大飢饉となり民は採って食べた(占いは「国中の竹・柏が枯れれば三年以内に喪がある」)。十七年、睦州で竹の実がなった。
  • 天寶の初め、臨川郡の李嘉胤の家の柱に霊芝が生え、天尊像のような形をしていた。
  • 上元二年(761年)七月甲辰、延英殿の御座の上に白い霊芝が生え、一茎に三花咲いた(白は喪の象である)。
  • 大和九年(835年)冬、鄭注の金帯に菌が生えた(草妖に近い)。
  • 開成四年(839年)六月、襄州の山竹の実が米のようになり民が採って食べた。
  • 光啟元年(885年)七月、河中の解・永楽で草が生え葉が互いに絡み合い旌旗のような形になり、当時の人は「旗子草」と呼んだ。翌年七月、鳳翔麟游で草が旗のような形に生えた(占いは「その地に兵がある」)。

羽蟲之孽

  • 武德の初め、隋の将の堯君素が蒲州を守っていたとき、鵲が投石機に巣を作った。
  • 貞観十七年(643年)春、斉王祐が斉州刺史となり鴨を飼うのを好んでいたが、狸に鴨を噛まれ首を断たれたもの四十余羽に及んだ。この年四月丙戌、晋王を太子に立てたとき、雌雉が太極殿前に集まり雄雉が東宮顕徳殿前に集まった(太極殿は三朝が会するところである)。
  • 永徽四年(653年)、宋州の蔡道基の家の傍らに丈余りの獣が現れ、頭は羊に似て一角、鹿の形、馬の蹄、牛の尾、五色で翼があった(占いは「鳥獣に似た形の動物が現れるのは大兵の兆し」)。五年七月辛巳、万年宮に雀のような小鳥がいて、生んだ子が鳲鳩ほどの大きさになった。
  • 調露元年(679年)、鳴鵽が群れをなして飛び塞に入り野を蔽って続いたが、二年正月に至ってまた北に飛び戻り、霊夏の北まで来ると悉く地に墜ちて死に、見るとみな首がなかった。
  • 文明以後、天下でしばしば雌雉が雄に変わる、あるいは半分だけ変わったという奏上があった。
  • 景龍四年(710年)六月辛巳朔、烏が太極殿の梁に集まり追っても去らなかった。
  • 開元十三年(725年)十一月戊子、雄雉が泰山の斎宮内に馴れ飛んできた(封禅は功成を告げるためのもので、これほど重い祭事はないのに、野鳥が馴れ飛び禁衛を憚らないのは不祥である)。二十五年四月、濮州で二羽の烏・二羽の鵲・二羽の鸜鵒が同じ巣に住んだ。隴州で鵲が慈烏を育てた。二十八年四月庚辰、慈烏が宣政殿の栱に巣を作った。辛巳、また宣政殿の栱に巣を作った。
  • 天寶十三載(754年)、葉県で鵲が車の轍の中に巣を作った(木に巣を作らず地に巣を作るのはその所を失う象)。
  • 至德二載(757年)三月、安禄山の将の武令珣が南陽を囲んだとき、投石機に鵲が三度巣を作り雛が育ってから去った。
  • 大曆八年(773年)九月、武功で大鳥が捕らえられ肉の翼を持ち狐の頭で四足に爪があり長さ四尺余り、毛は赤くコウモリのようで群鳥がこれに従って騒いだ(羽虫の孽に近い)。十三年五月、左羽林軍で鸜鵒が二羽の鵲を育てた。
  • 貞元四年(788年)三月、中書省の梧桐の樹に鵲が泥で巣を作った(鵲が巣を作るのは歳の巡りを知る徴とされ、羽虫の中では知恵があるものとされるが、泥をあらわに巣にするのは風雨に遇えば壊れてしまう)。この年夏、鄭・汴の境内の烏がみな群れて飛び、魏博の田緒・淄青の李納の境内に集まり木を銜えて城を作り高さ二、三尺、方十里に及んだ。田緒・李納はこれを憎んで焼いたが、二晩続けてまた同様になり烏の口はみな血を流した。九年春、許州で鵲が烏の雛を育てた。十年四月、大鳥が宮中に飛来し数日雑骨を食べたが、捕らえると食を断って死んだ。六月辛未晦、水鳥が左蔵庫に集まった。十三年十月、懐州で𪄢鵊の巣に黄雀が出入りして餌を与えていた。十四年秋、色が青く鳩や鵲に似た珍しい鳥が宋州の郊外に現れ、そのとまる所には群鳥が翼を並べて守り朝夕稲粱を銜えてこれに与え、睢陽の人々は旬日にわたって野に出て観に来た。十八年六月、烏が徐州の滕県に集まり柴を銜えて城を作り、その中に白い烏一羽と碧色の烏一羽がいた。
  • 元和元年(806年)、常州で鸛が平地に巣を作った。四年十二月、群烏が夜に太行山の上に集まった。十三年春、淄青の府署及び城中で烏・鵲が互いに雛を取り合いそれぞれ子として育て、互いに搏ち合って止められなかった。
  • 寶曆元年(825年)十一月丙申、群烏が夜に鳴いた。
  • 開成元年(836年)閏五月丙戌、烏が唐安寺に集まり月を越えて散った。雀が玄法寺に集まり、燕が蕭望之の墓に集まった。二年三月、真興門外の鵲が古い墓に巣を作った(鵲が巣を作るのは歳を避ける知恵とされ、古占ではさらにその高低で水旱を占うが、今は木に巣を作らず墓に穴を掘るのは不祥である)。秋、突厥の鳥が塞の北から群れをなして塞に入った。五年六月、禿鶖(はげわし)が群れて禁苑に集まった(鶖は水鳥である)。
  • 會昌元年(841年)、潞州長子で白頸の烏が鵲と闘った。
  • 大中十年(856年)三月、舒州の呉塘堰で多くの鳥が巣を作り幅七尺、高さ一尺に及んだ。水禽・山鳥がいずれも馴れ親しみ、その中に人の顔・緑の毛・紺色の爪嘴を持つものがおり、その鳴き声は「甘」と聞こえたので人々はこれを「甘虫」と呼んだ(占いは「尋常でない鳥が来て邑に宿るのは国に兵があり人が互いに食む兆し」)。
  • 咸通七年(866年)、涇州霊台百里戍で雀が燕を生み、大きくなるとともに飛び去った(京房易伝に「賊臣が国にあれば、その妖は燕が雀を生む」とある。雀が燕を生むのも同じ説である)。十一年夏、雉が河内県の署に集まった。咸通中、呉・越に極めて大きい珍しい鳥がおり四つの目と三本の足を持ち山林で鳴き、その声は「羅平」と聞こえた(占いは「国に兵があり人が互いに食む」)。
  • 乾符四年(877年)春、廬江県の北で鵲が地に巣を作った。六年夏、鴟・雉が偃師の南楼及び県署に集まった(劉向は「野鳥が人家に入るのは宮室が空になろうとする兆し」という)。
  • 廣明元年(880年)春、絳州翼城県で鵂鶹鳥(ふくろう)が群れて県署に集まり、他の鳥がこれを追って騒いだ。光啟元年・二年もまた同様であった(鵂鶹は一名を訓狐という)。
  • 中和元年(881年)三月、陳留で烏が鵲に変わった。二年、鵲が烏に変わった(古人は烏で軍の勝敗を占った。烏が鵲に変わるのは民が賊に従う象、鵲が再び烏に変わるのは賊が再び民に戻る象である)。三年、新安県の吏の家で雉を捕らえて飼っていたが、鶏と馴れ親しんでいたのに一月余りで互いに闘って死んだ。四年、臨淮漣水の民家の鷹が鵝に変わり泳げなくなった(鷹は猛禽で撃つゆえに武臣の象であり、鵝は羽毛は清潔だが遠く飛べず搏撃の用がなく厨房を潤すのみである)。
  • 光啟元年(885年)十二月、陝州平陸の集津山で二つの頭が背中合わせにつながった雉が現れ集津倉の廡後にとまっていたが、数月後に群雉数百がこれに闘い殺した。二年正月、閺郷・湖城で野雉及び鳶が夜鳴いた。七月、中条山で鵲が巣を焼いた。三年七月、鵲がまた巣を焼いた(京房易伝に「人君が暴虐なら鳥がその巣を焼く」とある)。三年十月、慈州仵城で梟と鴟が闘い互いに殺し合った。
  • 光化二年(899年)、幽州節度使の劉仁恭が貝州を屠って去ったとき、夜に鵂鶹鳥十数羽が幕帳に飛び込み追い出しても戻ってきた。
  • 昭宗の時、禿鶖鳥が寝殿の隅に巣を作り、帝みずからこれを射殺した。
  • 天復二年(902年)、帝が鳳翔にいたとき十一月丁巳、冬至の夜に急に風が吹き烏が数千羽、夜明けまで飛び騒ぎ数日止まなかった。車駕が岐にあってから常に烏数万羽が殿前の樹々にとまり、岐の人々はこれを「神鴉」と呼んでいた。三年、宣州に雉に似た大きな鳥がおり尾に星が散るような火の光があり戟門に集まったが、翌日大火が起こり曹局はすべて焼けたが兵械のみ残った。

羊禍

  • 義寧二年(618年)三月丙辰、麟游県で尾のない羔羊が生まれた。この月乙丑、太原が頭のない羖羊を献じたが死ななかった。
  • 開元二年(714年)正月、原州が肉の角を持つ羊を献じた。二年三月、富平県で肉の角を持つ羊が生まれた。
  • 會昌二年(842年)春、代州崞県で二つの頭が首でつながり尾が二本ある羊が生まれた(占いは「二つの頭は上が一つでない象」)。
  • 咸通三年(862年)夏、平陶の民家で子牛のような大きさの羔羊が生まれた。
  • 乾符二年(875年)、洛陽の建春門外で暴雨のとき地に羖羊のようなものが墜ち、食を摂らずしばらくして地中に入り、その跡は月余り消えなかった(あるいは土の雨と考えられた。占いは「旱にあたる」)。

赤眚赤祥

  • 武德七年(624年)、河間王の孝恭が輔公祏を征討したとき、船中で諸将を宴し孝恭が金の椀で長江の水を酌み飲もうとすると血に変わった。孝恭は「椀の中の血は公祏を討ち取る前兆である」と言った。
  • 武德の初め、突厥国中に三日間血の雨が降った。
  • 光宅の初め、宗室の岐州刺史崇真の子の橫・杭らが夜宴の際、突然血のような臭気があった。
  • 武后の時、来俊臣の家の井戸の水が血のように赤くなり、井の中で夜に嘆く声がしたので、俊臣が木で井を塞ぐと、木が自然に十歩外に投げ出された。
  • 長安中、幷州晋祠の水が血のように赤くなった。
  • 中宗の時、成王千里の家に血の点が地に落ち、化粧箱の上にも血が滴り腥い臭いが数歩に及んだ。また中郎将の東夷人の毛婆羅が飯を炊いたところ、一夜で血に変わった。
  • 景龍二年(708年)七月癸巳、赤い気が天の際に満ち光が地を照らし三日で止んだ(赤気は血の兆しである)。
  • 天寶六載(747年)、少陵原の楊慎矜の父の墓域内で草木がみな血を流し、慎矜は僧の史敬思にこれを禳わせたが、朝を退いて裸で叢棘の間で桎梏につながれても数十日血が止まなかった。十二載、李林甫の邸の東北隅で毎夜火光が起こり、小児が火を持って出入りするように見えることもあった(赤祥に近い)。
  • 寶應元年(762年)八月庚午の夜、天を亙る赤光があり紫微を貫き次第に東北に移り半天に及んだ。
  • 大曆十三年(778年)二月、太僕寺の泥像の左腕から黒い汗が滴り落ち、紙で受けると血であった。
  • 貞元二年(786年)十一月壬午、日没時に黒雲の中から五つの赤気が出て天を亙った。十二年九月癸卯、夜に火のような赤気が北方に現れ上は北斗に至った。十七年、福州の剣池の水が血のように赤くなった。二十一年正月甲戌、京師に赤い雪が降った。
  • 元和十四年(819年)二月、鄆州の従事院の門前の地に方一尺余りの血だまりができ色は鮮やかな赤で、由来が分からず人々は空から墜ちたものと考えた。
  • 長慶元年(821年)七月戊午、黄河の水が赤くなり三日で止んだ。
  • 寶曆元年(825年)十二月乙酉の夜、西北から霧が起こりまたたく間に天を覆い、霧が止むと赤い気があり浅いところ深いところがあり、久しくして散った。
  • 大和元年(827年)四月庚戌、北方に赤い気があり中に数条の白い気が交わった。六月乙卯の夜、西北に赤い気があった。八月癸卯、京師で赤い気が天に満ちた。二年閏三月乙卯、北方に血のような赤い気があった。
  • 咸通七年(866年)、鄭州の永福湖の水が凝血のように赤くなること三日に及んだ。
  • 乾符六年(879年)、中書省の政事堂に朝、死人があり血が地一面を汚していたが誰か分からなかった。また御井の水が赤く腥くなり浚うと腐爛した女子の死体が出てきた(赤祥に近い)。
  • 中和二年(882年)七月丙午の夜、西北方に絳のような赤気が天の際まで届いた。
  • 光啟元年(885年)正月、潤州の江水が赤くなり数日に及んだ。

水沴火

  • 幽州坊谷の地には常に火があったが、長慶三年(823年)夏、ついに水が積もって池となった(水沴火に近い)。