其八 日躔盈縮略例
- 北斉の張子信は長年の観測から合朔・日食の加時に「入気差」があることに気づいたが、その損益はまだ正確でなかった。劉焯に至って盈縮躔衰の術を立て、四象の升降と結びつけた。麟徳暦はこれを踏襲し「躔差」と改称した。おおよそ陰陽の往来はいずれも徐々に積み重なって変化する。冬至には日の運行が最も急で、急激さが徐々に減じて春分に中となり、その後は遅くなる。夏至に至ると運行が最も緩やかで、徐々に増して秋分でまた中となり、その後は急になる。急が極まれば寒さが厳しく、緩やかが極まれば暑さが厳しく、中に至れば雨と晴れの気が交わる。これは自然の道理である。劉焯の術では春分の前日が最も急、翌日が最も緩やかで、秋分の前日が最も緩やか、翌日が最も急とし、二至では舒(緩)急が同じで中間の1日を平行とするが、この説は正しくない。24気の晷景を基準に日躔の盈縮を考証し、加時をより精密にすべきである。
其九 九道議
- 『洪範伝』に「日には中道があり、月には九行がある」とある。中道とは黄道である。九行とは、青道2つ(黄道の東に出る)、朱道2つ(黄道の南に出る)、白道2つ(黄道の西に出る)、黒道2つ(黄道の北に出る)である。立春・春分には月は東の青道に従い、立夏・夏至には南の朱道に従い、立秋・秋分には西の白道に従い、立冬・冬至には北の黒道に従う。漢の史官の旧事には九道術があったが久しく廃れ、劉洪がこれを大いに採り遅疾陰陽暦を著したが、本来消息を基とする術は伝わらなかった。
- 陰陽暦の交点が冬至・夏至にあれば、月は青道・白道を行き、交わる点は同じでも出入りの行路が異なる。青道は春分の宿及びその対衝で黄道の正東にあり、白道は秋分の宿及びその対衝で黄道の正西にある。交点が立春・立秋にあれば月は朱道・黒道を行き、朱道は立夏の宿及びその対衝で黄道の西南に、黒道は立冬の宿及びその対衝で黄道の東北にある。交点が春分・秋分の宿にあれば月は朱道・黒道を行き、朱道は夏至の宿及びその対衝で黄道の正南に、黒道は冬至の宿及びその対衝で黄道の正北にある。交点が立夏・立冬にあれば月は青道・白道を行き、青道は立春の宿及びその対衝で黄道の東南に、白道は立秋の宿及びその対衝で黄道の西北にある。その大紀はいずれも2道を兼ね、実際には8節(8つの節気)に分かれ四正四維に合する。
- 陰陽暦の中終の交点では月は正しく黄道に当たり、交点から7日で91度進み、一象の率に等しく八行の中を得る。八行と中道で九、これを九道という。おおよそ8行は春秋分に正しく黄道から6度離れ交点は冬夏至にあり、冬夏至に正しければ黄道から6度離れ交点は春秋分にある。易の九・六・七・八は交互に終始の象となる。乾坤が定位すれば8行はそれぞれ正しい位置にあるが、寒暑が交代し晦朔が変わると南にあるものは北に、東にあるものは西に変わる、これが屈伸・消息の象である。
- 黄道の差は春分・秋分から起こり、赤道との交点の前後各5度を限とする。初め、黄道は赤道より24分の12多く、限ごとに1ずつ損じ9限で終わり4に至る。四立(立春立夏立秋立冬)の際は1度弱でほぼ平常に戻る。春分後・秋分前は初限5度、赤道は黄道より24分の4多く限ごとに1ずつ増し9限で12に至り、黄道が再び交わる。夏至・冬至の前後も同様に5度を限として初限12から9限で4に終わる。
- 月道の差は交初・交中から起こり、黄道との交点の前後各5度を限とする。初限、月道は黄道より48分の12多く限ごとに1ずつ損じ9限で4に終わり、黄道より46度半多い率で1度強、ほぼ平常となる。以下、初限5度から月道は黄道より48分の4少なく限ごとに1ずつ増し9限で12に終わり、黄道より43度半少ない率となり陰陽暦の二交の半ばに至る。交初限で12分増すものは半交末限で12分減じ、交から46度で損益が平均する。
- 日の運行は歳差と共に移り、月の運行は交限に従って変化する。遯伏が相消え朓朒が相補うことで九道の数が知られる。月道の交点が二分(春秋分)と同度であれば赤道・黒道は近交初限で黄道が24分の12増し月道が48分の12増す。半交の末ではその減も同様である。交点が四立と同度であれば黄道は損益の中にあり月道は48分の12差する。月道が損益の中に至れば黄道は24分の12差する。9限で黄道は3度、月道は4分度の3差し、いずれも朓朒相補うことになる。交点が二至と同度であれば青道・白道は近交初限で黄道が24分の12減じ月道が48分の12増す。半交の末では黄道が24分の12増し月道が48分の12減じ、9限で黄道と月道の差は同じとなり遯伏相消えることになる。
- 日の出入りは赤道から24度、月の出入りは黄道から6度で相距たること4分の1、九道の変化では四立を中交とする。二分では4分の1増し黄道の度と半ばで等しく、二至では4分の1減じ黄道の度と正しく均等になる。極数を推して1気ごとに1候を移すと月道の差は9分の1ずつ増減し、72候で九道が窮まる。
- 月が交わる1終ごとに前に交わった1度と余り8万9773分度の4万2503少半だけ退き、221月と余7753を積むと交道が周天する。これを半分にすると9年で九道が終わる。
- 四象で考証すると、合朔の交点を7十2候から入り交初とし、望の交点を交中とする。交初が冬至初候にあり陰暦に入れば青道を行く。さらに13日76分日の46で交中に至り所衝の宿を得て陽暦に入り青道を行く。交初が陽暦に入れば白道を行く。ゆえに交初の所入を考証すれば周天の度が知られる。望の交が冬至初候にあれば13日46分を減じ大雪初候の陰陽暦を見てその行を正す。
其十 晷漏中星略例
- 日の運行には南北があり、晷漏(日影と漏刻)には長短がある。しかし24気の晷差の遅速が一様でないのは句股(直角三角形の理)によるものである。規(円)の中に直に当たれば差は遅く、句股の数と等しければ差は急になる。緯度の高低によって出会う状況が異なるのは黄道刻漏でも同様である。これは数の浅い部分であり、近代でもまだ十分に理解されていない。今、黄道去極(黄道と天の極との距離)と晷景・漏刻・昏距・中星の4つの術を互いに求め合わせ、消息を同率にして循環的に中を求め、九服(諸方位)の変化に合わせる。
其十一 日蝕議
- 『詩経』小雅「十月之交、朔日辛卯」について虞𠠎は暦で推し幽王6年とした。開元暦で定交分を求めると4万3429となり蝕限に入り加時は昼にある。交会して蝕するのは常のことである。詩に「彼月而食、則維其常。此日而食、于何不臧」とある。日は君の道であり朏魄の変化がなく、月は臣の道であり日に遠ざかれば益々明るく日に近づけば益々虧ける。望が日の軌道と会すれば遠ざかり、遠く極まればまた交わりに近づく、これは臣人の象を著すものである。望が黄道に正しく当たるのは臣が君の明を干す象であり、陽(月)がこれを蝕する。朔が黄道に正しく当たるのは臣が君の明を壅ぐ象であり、陽(日)がこれに蝕される。十月之交は暦上は蝕すべきであったが君子はなお変事とし詩人がこれを悼んだ。ならば古の太平の世には日食せず彗星も現れなかったことがあったのだろう。
- 過至(至の前後)で未だ分に及ばない時、月が行を変えてこれを避けたり、5星が密かに日下にあり侮りを禦いで救ったり、交わりの度が浅かったり陽暦にあり陽が盛んで陰が微かなため食さないことがある。あるいは徳が休明であれば小さな眚(凶兆)があっても天がこれを隠し、交わっても食さない。これら4つはいずれも徳教によって生じるものである。
- 四季の中、分(春分秋分)は同道、至(夏至冬至)は相過ぎ、交わって食があるのは天道の常である。劉歆・賈逵のような近古の大儒がどうして軌道の交わりと朔望の術を知らなかったろうか。日食が異常なことなので触れずに論じなかったのであろう。
- 黄初以来、暦を治める者が初めて日食の疎密を課題とし、張子信に至ってさらに詳しくなった。劉焯・張冑玄らは自らの術を過信し、日月はいずれも密率で求められるとしたが、これは暦紀にのみ専心した結果である。
- 戊寅暦・麟徳暦で『春秋』の日食を推すと、おおよそ蝕限に入るが暦上蝕すべきなのに『春秋』に記載がないものも多く、日食は必ず交限にあるが交限に入っても必ずしも蝕するとは限らない。開元12年7月戊午朔、暦上は半分強蝕すべきだったが交趾から朔方まで観測しても蝕しなかった。13年12月庚戌朔、暦上は太半蝕すべきだったが、この時皇帝は泰山封禅を終え梁・宋の間に滞在中で膳を撤し楽を止め蓋を用いず素服していたところ、日は蝕しなかった。時に群臣及び八荒の君長で助祭に来た者が数え切れず、みな寿を捧げ慶を称え粛然として神に服した。算術が食い違うといえどもこのようなことがあるのは、徳が天を動かすことが一日を待たないことを示すものである。もし開元の2つの蝕例により交限を無理に変えて合わせようとすれば、誤差はかえって増すであろう。
- 開元の治暦以来、史官は毎年節気の中晷を比較検証し、加時の小余をその都度検証してきたが、大数(大まかな規則)は一定であっても年ごとに一様ではない。晷が変じて長ければ日の運行は黄道の南、晷が変じて短ければ黄道の北にある。南に行けば陰暦の交わりが失われることがあり、北に行けば陽暦の交わりが失われることがある。日でさえ黄道の中にあってもなお変化があるのに、まして月の九道の運行はなおさらである。杜預は「日月は動く物であり運行の度に大まかな量があっても小さな盈縮がないわけではない。ゆえに交会しても蝕さないことがあり、あるいは頻繁に交わって蝕することもある」と述べたが、その通りである。
- ゆえに暦を較べるには必ず古史を稽え、虧蝕の深浅・加時朓朒陰陽の数が符合すれば、反復して求め暦数の中から辰象の変化に合わせ、辰象の変化から暦数の中を求め返す。同じものを類推すれば中庸が知られ、異なるものを弁別すれば変化が知られる。その循度(規則的な運行)は暦に合し、失行(不規則な運行)は占に合する。占の道は順成を執って常に中を守り変化を追い、暦の道は逆数を執って常に中を守り変化を待つ。この理を知る者にとって天道は掌を指すごとくである。
- 略例に曰く、旧暦が日食の浅深を考えるのは張子信の伝えたところによるもので、積年の観測結果だがなぜそうなるかは未だ明らかでなかった。円儀(円形の測定器)で日月の径を測り、月径の半分を入交初限1度半から減じたものを闇虚(地球の影)の半径とし、月の黄道からの毎度の差数により2つの径が重なる程度で蝕分を検証する。日の遅疾を乗じて汎用刻数とし、おおよそ交わりから3度に満たなければ月の運行が闇虚に没する既限(皆既)に入る。また日月の径の半分を春分入交初限の度数差から減じたものを斜射の差とし、この差数から既限を立て、2度の間で優游進退させて2径が重なる程度から日蝕の分数を知る。月径が既限の南を超えれば陰暦にあっても外道と同様に半分ほど虧ける、これは斜めに望むためである。既限の外は外に向かって蝕するはずで、外道の交分もこの例に準ずる。これにより古今の日食43件・月食99件を較べ課したところいずれも第一等(最も的中)であった。
- 日食をすべて常数で求められないなら暦数の疎密を検証できず、すべて常数で求められるなら政教の善し悪しを知ることができない。今、さらに考日食或限術を設け、常なら数に合うようにする。また日月の交会は大小相似ていても月が日の下にあり、京師から斜めに望めば中国で皆既でも南方の戴日の下ではわずか半分しか虧けず、月の外から観れば交わっても蝕さないことがある。九服(諸地方)の日晷を歩いて蝕分を定め、晨昏の漏刻も地によって変わるため、この一つの術で宇宙が広くとも斉一に扱うことができる。
其十二 五星議
- 歳星(木星)は商・周から『春秋』の末年まではおよそ120余年ごとに1次を超えた。戦国以降その運行は速まり漢代にはなお微差があったが、哀帝・平帝の間に至って旧勢が尽き、以後84年ごとに1次を超えるのが常となった。これは他の星と異なる点である。姫氏(周)は霊威仰の精から出て木行の正気を受けた。歳星は農祥(豊作の祥瑞)を主り后稷がこれに拠ったため、周人は常にその吉凶の兆しを観察した。周が初めて王となった時、歳星は鶉火に次り天黿に達した。周が衰えるに至り玄枵に淫(過度に進む)して鳥帑を害した。その後、群雄が力を争い礼楽が崩壊し合従連衡の術が興った。ゆえに歳星は常に上で贏行(進みすぎ)し侯王は下で安らかでなかった、これは木緯(歳星)の失行の勢いが火運の中で極まったもので理数の然らしめるところである。
- 開元12年正月庚午、歳星は進賢の東北1尺3寸、軫12度に直り、麟徳暦では軫15度とする。遡って漢の河平2年10月下旬、歳星は軒轅南端の大星の西北1尺ほどにあり、麟徳暦では張2度で軒轅大星に直るとする。上下750年の隔たりでその行度を較べるとまだそれほど盈縮していない、ならば哀帝・平帝以降は毎年少しずつ差してはいない。さらに上って120年、孝景中元3年5月、星は東井・鉞にあり麟徳暦では参3度とする。さらに上って60年、漢元年10月、5星が東井に集まったのは歳星に従ったもので秦正では乙未歳、夏正では甲午歳に当たる。麟徳暦は白露8日で歳星が觜觽1度に留まるとし、翌年立夏に参で伏するとするが、これは差行がまだ尽きていないのに常数で求めたためである。さらに上って271年、哀公17年、歳は鶉火にあり麟徳暦は初見を輿鬼2度とする。立冬9日で星3度に留まり、翌年啓蟄10日で退き柳5度に至るが、なお鶉火に及ばない。さらに上って178年、僖公5年、歳星は大火にあるはずだが麟徳暦は初見を張8度とし翌年翼16度で伏し鶉火に定まり3次も差する。哀公以降は差行が漸次遅くなり相距たりが近いが、哀公以前は常に行が遅い。旧暦はなお急な率を用い変化に合わせることを知らなかったため差がさらに多くなった。武王の革命の際、歳星もまた大火にあったが麟徳暦では東壁3度とし、ならば唐虞以前は差が周天に及ぶことになる。
- 太初暦・三統暦は歳星が12周天で1次を超えるとし、商・周間の事を推せばおおよそ合う。開元の注記で検証すると90余度差があり、歳星の後率を知らなかったのであろう。皇極暦・麟徳暦は7周天で1次を超えるとし、漢・魏間の事を推せばまだ差はないが、上って『春秋』所載の記事で検証すると90余度差があり、歳星の前率を知らなかったのであろう。天保暦・天和暦は両率の中を得たため上は『春秋』に合い下は記注より精密であるが、永平・黄初間の事を推すと遠いところで30余度差があり、戦国後の歳星の変行を知らなかったのであろう。漢の元始4年から開元12年まで12甲子、上って隠公6年までも12甲子であり、この2暦(皇極・麟徳と太初・三統)はその中間で合うが、古で3次差せば今でも3次差し、両方(古今)に合うところでは中間がまた乖離する。1つの術で求めようとしても得られない。
- 開元暦の歳星前率は398日・余2219・秒93。哀公20年丙寅以降、1合ごとに度余1分を加え439合に至り次合で秒13を加えて止め、398日・余2659・秒6で日と合する、これを歳星後率とする。以後これを常とし、漢の元始6年に入る。
- 歳星差合術(前率と後率の切り替えを求める計算法):哀公20年冬至合余に、入差以降の中積分を加え前率で約すことで入差合数を求める。以下、余りは暦術で入れて冬至後の合日を逆算し、副えて入差合数を並べ下位に1算を増して2で割り、大衍通法で割って日を求め、余りは日余として合日に加え、差合の所在を得る。歳星差行径術を求めるには、後終率で上元以来の中積分を約せば同様に求まる。実際の運行を稽えれば元始6年から差を置いて歩を進めるべきで、前後の隔たりに髪の毛一本入る余地もなく、上元の首には忽微の空積もない。
- 成湯が桀を伐った歳、歳(歳星)は壬戌にあり、開元暦では星と日が角で合し氐10度で次いだ後に退行したとする。翌年、湯が建国し元祀と定め、順行して房で日と合し、これにより商人の命が記された。
- その後601算で紂の6祀、周文王が初めて畢で禴祭(祖先祭祀)を行い、13祀に歳は己卯で星は鶉火にあり、武王が位を嗣いだ。商に克った歳、星は輿鬼に進み東井に退守する。翌年、周が革命を始め順行して柳で日と合し、張に進んで留まる。その分野を考証すれば陝を分けた地と三監の封域の際にあたる。
- 成王3年、歳は丙午で星は大火にあり、唐叔が初めて封ぜられた。ゆえに『国語』に「晋の始封、歳在大火」とある。『春秋左伝』僖公5年、歳は大火にあり晋の公子重耳が蒲を出て狄に奔った。16年、歳は寿星にあり斉を経て衛を過ぎ、野人が塊(土くれ)を与えたところ子犯は「天の賜り、天の事は必ず象り、歳が鶉火に及べばこの応があるはずだ。寿星に復せば必ず諸侯を獲るだろう」と言った。23年、歳星は胃・昴にあり秦伯が晋の文公を受け入れた。董因は「歳は大梁にあり天行を集めようとしている。元年、実沈の星に晋人はいる。君の出行の際は歳は大火、閼伯の星でありこれを大辰という。辰は善を成し后稷がこれを相し唐叔がこれで封ぜられた。また辰が出て参が入るのはいずれも晋の祥である」と述べた。27年、歳は鶉火にあり晋侯が衛を伐ち五鹿を取り楚軍を城濮で破り初めて諸侯を得た。歳がちょうど寿星に及んだことはいずれも開元暦と合う。
- 襄公18年、歳星は陬訾の口にあり開元暦は大寒3日で星と日が危3度で合し、順行して営室8度に至るとする。翌年、鄭の子蟜が卒し葬るにあたり公孫子羽と裨竈が晨に集まり事に当たったところ伯有氏の門を過ぎ門上に莠(雑草)が生えているのを見て子羽が「莠がなおあるうちに歳は降婁に入り曙にある」と言い、裨竈は「まだ歳を終えるまでもつだろうが歳はこの次には及ばない」と言った。開元暦では歳星は奎にあり奎は降婁である。麟徳暦は危にあり危は玄枵である。28年春、氷がなかった。梓慎は「歳は星紀にあり玄枵に淫している」と言い、裨竈は「歳がその次を棄て翌年の次に旅し鳥帑を害する。周・楚がこれを悪む」と言った。開元暦では歳星は南斗17度に至り退いて西建の間に守り、再び順行して牛の初めで日と合するとする。星紀にあるべきなのに盈行して虚宿に進んでしまったため「淫」というのである。玄枵に2年留まり30年に至る。開元暦では歳星は営室10度に順行して留まるとし、子蟜の卒から1終に当たる。その年8月、鄭人が良霄を殺した。ゆえに「その亡ぶに及んで歳は陬訾の口にあった」という。翌年、降婁に及ぶ。
- 昭公8年11月、楚が陳を滅ぼした。史趙は「まだである。陳は顓頊の族であり歳が鶉火にあってこそ滅びる。今は析木の津にあり、まだ復するだろう」と言った。開元暦では箕8度にあり析木の津である。10年春、婺女の初めに進み玄枵の維首にある。伝に「正月、星が婺女に出現した」とある。裨竈は「今、歳は顓頊の墟にある」と言った。この歳、星は日と危で合する。翌年、営室に進み再び豕韋の次を得る。景王が萇弘に「今年、諸侯の誰が吉で誰が凶か」と問うと「蔡は凶。蔡侯般がその君を殺した歳、歳は豕韋にあり、これを過ぎることはなく、楚がこれを有するだろう。歳が大梁に及べば蔡は再び楚に凶を受ける」と答えた。13年に至り歳星は昴・畢にあり楚の霊王が弑され陳・蔡が再び封ぜられた。初め昭公9年、陳に災いがあった。裨竈は「後5年、陳は再び封ぜられるだろう。歳が5度鶉火に及んで後、陳はついに滅びる」と言った。陳の火災から5年、歳は大梁にあり陳は建国を復した。哀公17年、5度目に鶉火に及んで楚が陳を滅ぼした。この年、歳星は日と張6度で合した。昭公31年夏、呉が越を伐った。初めて越に対し用兵し、史墨は「越が歳を得て呉がこれを伐てば必ずその凶を受けるだろう」と言った。この歳、星は日と南斗3度で合した。昔、僖公6年、歳陰は卯にあり星は析木にあった。昭公32年もまた歳陰は卯にあり星は星紀にあった。ゆえに『三統暦』はこれにより超次の率とした。実際を考証すればなお120余年である。近代の諸暦は84年でこれを揃えようとするが、これは誤りである。その後38年で越が呉を滅ぼし、星は3度斗・牛に及び、すでに差合に入って2年であった。
- 五事(貌・言・視・聴・思)が中で感じれば五行の祥がその下に応じ、五緯(五星)の変がその上に彰れる。声が発すれば響きが和し形が動けば影が随うように、王者が典刑(規範)の正を失えば星辰は乱行し、彝倫(倫理)の序を汨(みだ)せば天事は無象となる。その乱行・無象の時にどうして暦紀で斉一に扱えようか。ゆえに襄公28年、歳は星紀にあり玄枵に淫した。30年8月に至って初めて陬訾の口に及び、次を超えて前に進み2年これに留まった。
- 漢の元鼎中、太白(金星)が天苑に入り失行し黄道の南30余度にあった。間もなく武帝が北方を巡狩し単于台に登り兵18万騎を率い、大宛を誅すると馬が軍中で多く死んだ。
- 晋の咸寧4年9月、太白が見えるはずなのに見えず、占いは「これを失舎という、軍が破れないなら国が亡ぶだろう」とした。時に呉を伐とうとしており、翌年3月、兵が出て太白が初めて夕に西方に見え、呉が亡んだ。
- 永寧元年正月から閏月まで、5星が天を経て縦横に常なく現れた。永興2年4月丙子、太白が狼星を犯し失行して黄道の南40余度にあった。永嘉3年正月庚子、熒惑が紫微を犯した。いずれも天変で未曾有のことであり、ついに2帝(懐帝・愍帝)が蒙塵(都落ち)し天下が大乱した。
- 後魏の神瑞2年12月、熒惑が瓠瓜星の中にあったが一夕にして忽然と消え所在が分からなくなった。崔浩は日辰で推し「庚午の夕、辛未の朝、天に陰雲があり熒惑の消失はこの2日間にあった。庚午・未はいずれも秦を主り辛は西夷を主る。今、姚興が咸陽に拠っており、これは熒惑が秦に入ったのだ」と言った。その後、熒惑は果たして東井に出て留まり盤旋し、秦中は大旱で地が赤くなり昆明池の水も涸れた。翌年、姚興が死に2子が交戦、3年で国が滅んだ。
- 斉の永明9年8月14日、火星(熒惑)は昴3度で退行するはずが先に畢に至っており、21日に至って初めて逆行し北に転じ立冬に及んでその形色はますます盛んになった。魏の永平4年8月癸未、熒惑は氐にあり夕に西方に伏したが、これも予定より50余日早く、暦が粗いといえどもこれほどにはならないはずである。
- 隋の大業9年5月丁丑、熒惑が逆行し南斗に入り色は赤く血のようで大きさは三斗器ほど、光芒が震え輝き長さ7、8尺、斗中で句巳(曲がりくねって)を成して運行した。これも未曾有の天変であった。後に楊玄感が反し天下が大乱した。
- ゆえに五星の留・逆・伏・見の効果、表裏・盈縮の運行は、いずれも時に係り政に象る。政の小さな過ちには小さな変化が、事が微かならば象も微かに、事が著しければ象も著しく現れる。すでに吉凶の象を示せば、また行を変じてその常度に戻る。そうでなければ、皇天はどうして下民を陰騭(見守り)し人主を警め悟らせることができようか。
- 近代の算者は象に暗く占者は数に迷い、5星の失行を見ればみな暦の誤りとし、七曜が軌道を循っていても天災とみなすことがある。ついに数と象が互いに紛れ両方の実を失うことになる。ゆえに暦を較べるには必ず古今の注記を稽え、入気が均等で行度が斉しければ上下相距てて反復して求めるべきであり、もし独り常と異なれば失行と知られる。
- おおよそ2星が相近ければしばしば失行のように見え、3星以上ならさらに甚だしくなる。天竺暦は九執(九曜)の情によりそれぞれ好悪があるとし、その好む星に遭えばこれに趣いて行が速く、これを捨てれば行が遅くなるとする。
- 張子信の暦は辰星(水星)の応見不見の術として、晨夕に日の前後46度内・18度外に木・火・土・金いずれか1星があれば見え、なければ見えないとする。張冑玄の暦は、朔望が交限にあり日下に伏する星がある場合、木・土は見から10日外、火は40日外、金は22日外なら加減差を用いないとするが、これらはみな精気が相感じることによるものである。
- 日月の失行は微少であり、5星の失行は著しく多い。今、常数をおおまかに考証し疎密を課する。
- 略例に曰く、入気加減もまた張子信に始まり後人はこれに従わない者はいない。しかし始めから終わりまで一貫させることは難しく、多くが合わない。今、麟徳暦を較べると熒惑・太白の見伏行度の過不足は熒惑48件・太白21件に及ぶ。その他の星の差は細かく検討に値しない。盈縮の運行は四象と潜かに合うはずだが24気の加減が一様でない。さらに易数を推してこれを正し、それぞれ歳差を立てて五精(五星)が28宿を周る変化を究める。史官の記録と較べると歳星27件・熒惑28件・鎮星21件・太白22件・辰星24件で、開元暦はいずれも第一等の的中率であった。
- 肅宗の代、山人の韓穎が大衍暦に誤りがあると上言した。帝はこれを疑い、穎を太子宮門郎とし直ちに司天台に当たらせた。さらにその術を損益し節ごとに2日を増して「至徳暦」と改名、乾元元年より施行し上元3年まで用いられた。