皇后の先蚕祭・親桑の礼
- 皇后が歳ごとに祀るのは一つ、季春吉巳に先蚕を享り、あわせて親桑を行う。後殿で散齋三日、正寝で致齋一日、正殿で一日行う。前日、尚舎が御幄を正殿西序及び室中にいずれも東向きに設ける。致齋の日、晝漏上水一刻に尚儀が「請中厳」を版奏する。尚服が司仗を率いて侍衛を布き、司賓が内命婦を導いて陪位させる。六尚以下がそれぞれ服を服し後殿に詣で奉迎する。尚儀が「外辦」を版奏する。上水二刻、皇后は鈿釵礼衣を服し珮を結び輿に乗って西房より出る、華蓋・警蹕を伴う。皇后が御座に即くと六尚以下が侍衛する。一刻ほどで尚儀が前に跪いて「尚儀妾姓言す、齋室に降り就くことを請う」と奏する。皇后は座を降り輿に乗って室に入る。散齋の日、内侍が吉である内命婦を率い蚕室で養蚕させ、預享する諸者はみな齋する。
- 享の三日前、尚舎直長が大次を外壝東門の内・道北に南向きに設け、内命婦及び六尚以下の次をその後にいずれも南向きに設ける。守宮が外命婦の次を設け、大長公主・長公主・公主以下は南壝の外・道西に、三公夫人以下はその南に、重行異位で東向北上とする。饌幔を内壝東門の外・道南に北向きに陳ねる。享の二日前、太楽令が宮県の楽を壇南・内壝の内に設け、諸女工はそれぞれ県の後に位する。右校が壇の南二十歩の所に採桑壇を作る、方三丈、高さ五尺、四方に陛を出す。尚舎が外壝の外に量って帷障を施し、四方に門を開くが東門は厭翟車を容れられる広さとする。享の一日前、内謁者が御位を壇の東南に西向きに設け、望瘞位を西南、瘞埳に当てて西向きに設ける。亜献・終献の位は内壝東門の内・道南、執事者の位はその後に重行異位で西向北上とする。典正の位は壇下、一は東南で西向き、一は西南で東向き、女史はそれぞれその後に陪する。司賛の位は楽県の東北、掌賛二人は南に少し退いて西面する。また司賛・掌賛の位を埋埳の西南に東面南上で設ける。典楽の麾を挙げる位は壇上南陛の西で東向き、司楽の位は北県の間、壇に当てて北向きとする。内命婦の位は終献の南、絶位、重行異位で西向北上とする。外命婦の位は中壝南門の外、大長公主以下は道の東で西向き内命婦に当たり少し退く、太夫人以下は道の西で公主と同程度の距離を取り重行異位で相い向き北上とする。また御採桑位を壇上に東向きに設け、内命婦の採桑位を壇下・御位の東南に北向西上に設け、御鉤・筐を執る者の位を内命婦の西少し南に西上で設け、内外命婦で鉤・筐を執る者の位はそれぞれその採桑位の後に置く。門外の位を設け、享官は東壝の外・道南に、従享の内命婦は享官の東に北面西上に、従享の外命婦は南壝の外・道西に次を設けるように置く。酒尊の位は壇上東南隅に北向西上で設け、御洗は壇南陛の東南、亜献の洗はさらに東南、いずれも北向きとする。幣篚は壇上尊坫の所に置く。晡後、内謁者がその属を率い尊坫・罍洗・篚冪を持って位に入れ設える。壇に登る者は東陛より行う。享の日、未明十五刻に太官令が宰人を率い鸞刀で牲を割き、祝史が豆で毛血を取り饌所に置いてから牲を烹る。五刻、司設が壇に登り先蚕氏の神座を壇上北方に南向きに設ける。
- 享の一日前、金吾が「壇所に集うべき外命婦らは夜行を聴す、採桑すべき者四人はそれぞれ女侍者が筐・鉤を進めて載せて行かせよ」と奏する。その日未明四刻、鼓を一打して一厳とし、二刻に鼓を二打して再厳とする。尚儀が「請中厳」を版奏する。一刻、鼓を三打して三厳とする。司賓が内命婦を導いて入り庭に立たせ重行西面北上とする。六尚以下が室に詣で奉迎する。尚服が宝を負い内僕が厭翟車を閤外に進め、尚儀が「外辦」を版奏する。馭者が轡を執り、皇后は鞠衣を服して輿に乗って出る、華蓋・侍衛・警蹕を伴う。内命婦が従って門を出る。皇后が車に登ると尚功が鉤を、司製が筐を進めて載せる。内命婦及び六尚らが車に乗って従い、翊駕の官はみな馬に乗る。駕が動くと警蹕するが鼓角は鳴らさない。内命婦・宮人が次第に従う。
- その日三刻、尚儀及び司醞がその属を率いて尊罍及び幣を実れ、太官令が籩・豆・簠・簋・俎などを実れ、内謁者がその属を率いて厨に詣で饌を奉じ入れ饌幔の内に設ける。駕が至ろうとする間、女相者が享官を、内典引が外命婦を導いてみな門外の位に就かせる。駕が大次の門外に至り車を廻して南向く。尚儀が車前に進み跪いて「尚儀妾姓言す、車を降りることを請う」と奏する。皇后は車を降り輿に乗って大次に至る、華蓋・繖・扇を伴う。尚儀が祝版を進め御署させ、出て坫に奠じる。尚功・司製が鉤・筐を受け取って退き、典賛が亜献及び従享の内命婦を導いてみな門外の位に就かせる。司賛が掌賛を率いて先に入って位に就く。女相者が尚儀・典正及び女史・祝史と尊罍篚冪を執る女官を導いて東門より入り壇の南に当たり北向西上とする。司賛が「再拝」と言い、掌賛が伝え、尚儀以下がみな再拝し位に就く。司楽が女工人を率いて入り、典賛が亜献・終献を、女相者が執事者を、司賓が内命婦を、内典引が外命婦を導いて入り位に就く。皇后が大次に半刻ほど留まる間、司言が尚宮を導いて大次の門外・門に当たり北向きに立たせる。尚儀が「外辦」を版奏する。皇后は次を出て東門より入り版位に至り西向きに立つ。尚宮が「再拝」と言い、皇后が再拝する。司賛が「衆官再拝」と言い、在位の者がみな再拝する。尚宮が「有司謹んで具う、行事を請う」と言う。楽が三成する。尚宮が「再拝」と言い、皇后が再拝する。司賛が「衆官再拝」と言い、在位の者がみな再拝する。壇上の尚儀が篚から幣を取り興って尊の所に立つ。皇后は壇の南陛より登り北面して立つ。尚儀が幣を東向きに進め、皇后が幣を受け進み北向きに跪いて神座に奠じ少し退いて再拝し、南陛より降り位に復する。まず内外命婦の拝が終わると、女祝史が毛血の豆を奉じ内壝東門の外に立ち、皇后がすでに幣を奠じ終えると毛血を奉じて入り南陛より登り、尚儀が壇上で迎え引き、進んで神座前に跪いて奠じる。皇后がすでに登って幣を奠じ終えると、司膳が出て女が進饌する者を率い饌を奉じ内壝東門の外に陳ねる。皇后がすでに降りて位に復すると、司膳が饌を引いて階に至る。女祝史が跪いて毛血の豆を徹し東陛より降りて出る。饌は南陛より登り、尚儀が壇上で迎え引いて神座前に設ける。皇后は罍洗に詣で、尚儀が跪いて匜を取り興って水を沃ぎ、司言が跪いて盤を取り興って水を承ける。皇后が手を盥う。司言が篚から巾を取り進めて帨を受け巾を受け取り跪いて篚に奠じる。それから篚から爵を取り興って進め、皇后が爵を受ける。尚儀が罍水を酌み司言が盤を奉じ皇后が爵を洗い、司言が巾を授けるのはいずれも初めと同様。皇后は壇の南陛より登り酒尊に詣でる。尚儀が醴斉を酌むのを賛け、先蚕氏の神座前に進み北向きに跪いて爵を奠じ興って少し退いて立つ。尚儀が版を持ち神座の右に進み東面して跪いて祝文を読む。皇后が再拝する。尚儀が爵で上尊の福酒を酌み西向きに進め、皇后が再拝して爵を受け跪いて酒を祭り啐酒し爵を奠じ興る。尚儀が女の進饌者を率い籩・俎を持って神前に進め、三牲の胙肉をそれぞれ一俎に置き、また籩で稷・黍飯を取り共に一籩に置く。尚儀が飯籩・胙俎を西向きに次第に進め、皇后がそのたび受けて左右に授ける。それから跪いて爵を取り飲み干し、興って再拝し、南陛より降り位に復する。まず皇后の献がほぼ終わる頃、典賛が貴妃を引いて罍洗に詣で手を盥い爵を洗い東陛より壇に登り、象尊で盎斉を酌み神座前に進み北向きに跪いて爵を奠じ興って少し退いて再拝する。尚儀が爵で福酒を酌んで進め、貴妃が再拝して爵を受け跪いて祭り飲み干し再拝し東陛より降り位に復する。昭儀の終献は亜献と同様。尚儀が神座前に進み跪いて豆を徹する。司賛が「賜胙」と言い、掌唱が「衆官再拝」と言い、在位の者がみな再拝する。尚宮が「再拝」と言い、皇后が再拝する。司賛が「衆官再拝」と言い、在位の者がみな再拝する。尚官が望瘞位に就くことを請い、司賛が掌賛を率い瘞埳の西南の位に就く。皇后は望瘞位に至り西向きに立つ。尚儀が篚を執り神座前に進み幣を取り北陛より壇を降り西行して瘞埳に詣で幣を埳に置く。司賛が「瘞埳す可し」と言い、東西各四人が半ば土を埳に実れる。尚宮が「礼畢る、採桑位に就くことを請う」と言う。尚宮が皇后を導いて採桑壇に詣で西陛より登り東向きに立つ。
- まず皇后が望瘞位に詣でようとする間、司賓が内外命婦で採桑する者・鉤筐を執る者をみな位に就かせる。内外命婦一品は各二人、二品・三品は各一人とする。皇后がすでに至ると、尚功が金鉤を奉じ北陛より登り進める。典製が筐を奉じて従い登る。皇后は鉤を受け桑を採り、典製が筐で受ける。皇后は三条採って止め、尚功が前に鉤を受け、典製は筐とともに退く。皇后が採桑を始めると典製らはそれぞれ鉤を内外命婦に授ける。皇后の採桑が終わると、内外命婦が次第に採り、女史で筐を執る者がこれを受ける。内外命婦の一品は五条、二品は九条採って止め、典製らが鉤を受け筐を執る者とともに退いて位に復する。司賓がそれぞれ内外命婦で採桑した者を導いて従わせ、蚕室に至り、尚功が桑を蚕母に授け、蚕母がこれを切って婕妤に授け蚕に食わせ、一𥴮に灑いで止める。尚儀が「礼畢る」と言う。尚宮が皇后を導いて大次に還らせ、内外命婦もそれぞれの次に還る。尚儀・典正以下がみな執事の位に復する。司賛が「再拝」と言い、尚儀以下がみな再拝して出る。女工人が次第に出る。祝版は齋所で燔く。
- 車駕が宮に還った翌日、内外命婦が正殿で会を設ける、元会の儀のようにし勞酒と称する。
有司の常祀十三種
- 有司が歳ごとに常に祀るものは十三ある。立春後の丑日に風師を、立夏後の申日に雨師を、立秋後の辰日に霊星を、立冬後の亥日に司中・司命・司人・司禄を祀り、季夏の土王の日に中霤を、孟冬に司寒を祭る。いずれも一献とし、祝は「天子謹んで遣わす」と称える。
文宣王・武成王の釈奠
- 中春・中秋に文宣王・武成王を釈奠するのはいずれも上丁・上戊に行い、国学では祭酒・司業・博士を三献とし楽は軒県を用いる。享の一日前、奉礼郎が三献の位を東門の内・道北に、執事の位を道南にいずれも西向北上に設ける。学官・館官の位は県の東、執事に当たって西南で西向きに、学生の位は館官の後にいずれも重行北上とする。観者の位は南門の内・道の左右に重行北面で相い向いて首とする。三献の門外の位は東門の外・道南に、執事の位はその後にそれぞれ異位で北向西上とする。館官・学官の位は三献の東南に北向西上とする。先聖の神座は廟室内の西楹の間に東向きに、先師は先聖の東北に南向きに、他の弟子及び二十一賢は次第に東に南向西上で陳ねる。他はいずれも常祀のようにする。
- 皇子の束脩は、束帛一篚(五匹)・酒一壺(二斗)・脩一案(五脡)とする。その日の平明、皇子は学生の服(青衿の服)を服し学門の外に至る。博士は公服を服し、執事者が導いて学堂の東階上に西面して立たせる。相者が皇子を導いて門の東に西面して立たせる。束帛の篚・壺酒・脯案を皇子の西南、門に当てて北向きに重行西上で陳ねる。将命者が出て門の西に東面して立ち「敢へて事に就くことを請う」と言う。皇子は少し進み「某方に先生に受業す、敢へて見えんことを請う」と言う。将命者が入って告げる。博士は「某、不徳、皇子に辱められることのなきよう請う」と言う。もし已に王に封ぜられていれば「王に辱められることのなきよう請う」と言う。将命者が出て告げ、皇子はなお固く請う。博士は「某、不徳、皇子は位に就かれよ、某敢へて見えん」と言う。将命者が出て告げ、皇子は「某、敢へて賓客に視ることなし、終に賜見を請う」と言う。将命者が入って告げ、博士は「某、辞して命を得ず、敢へて従わざらんや」と言う。将命者が出て告げ、篚を執る者が篚を東面して皇子に授け、皇子が篚を執る。博士は降りて東階の下に俟ち西面する。相者が皇子を導き執事者が壺酒・脩案を奉じて従い、皇子は門に入って左に、西階の南に詣で東面する。酒・脩を奉じる者は皇子の西南に東面北上で立つ。皇子が跪いて篚を奠じ再拝する。博士が答えて再拝する。皇子は還って避け、進んで跪いて篚を取る。相者が皇子を導いて博士の前に進め、東面して幣を授ける。壺酒・脩案を奉じる者が従い博士の前に奠じ、博士が幣を受け、執事者が酒・脩・幣を取って東へ運ぶ。相者が皇子を導いて階の間・少し南に北面して立たせ、酒・脩を奉じた者が出る。皇子は拝し終えると相者に導かれて出る。
- 学生の束帛・酒・脩をもって見えるのも皇子と同様である。
孔子祭祀の沿革
- 武徳二年、国子学に周公・孔子廟を立てることが初めて詔された。七年、高祖が釈奠を行い周公を先聖、孔子を配とした。九年、孔子の後裔を褒聖侯に封じた。貞観二年、左僕射房玄齢・博士朱子奢が「周公・尼父はともに聖人であるが、学で釈奠するのは夫子ゆえである。大業以前はいずれも孔丘を先聖、顔回を先師としていた」と建言し、周公を罷めて孔子を先聖に昇せ顔回を配とした。四年、州県学にいずれも孔子廟を作ることが詔された。十一年、孔子を宣父と尊し、兗州に廟を作り戸二十を給してこれを奉ずることが詔された。十四年、太宗が国子学の釈奠を観、祭酒孔穎達に孝経を講じさせた。
- 二十一年、左丘明・卜子夏・公羊高・穀梁赤・伏勝・高堂生・戴聖・毛萇・孔安国・劉向・鄭衆・賈逵・杜子春・馬融・盧植・鄭康成・服虔・何休・王粛・王弼・杜預・范甯の二十二人をいずれも配享させることが詔された。尼父廟は学官が自ら祭り、祝は「博士某、先聖に昭告す」と称えた。州県の釈奠もまた博士が祭った。中書侍郎許敬宗らが「礼に『学官はその先師を釈奠す』とあり、鄭氏は『詩・書・礼・楽の官である』と言う。四時の学は将にその道を習わんとするゆえ、それぞれの師を釈奠し先聖には及ばない。ただ春秋の合楽の際、天子が学を視、有司が先聖・先師を総じて祭る。秦・漢の釈奠には文がなく、魏は太常が行事し、晋・宋は学官が主祭した。しかも国学の楽は軒県を用い、尊・俎は官に須るもので臣下が専らにできることではない。国学の釈奠は祭酒・司業・博士を三献とし、辞は『皇帝謹んで遣わす』と称えられたい。州学は刺史・上佐・博士を三献とし、県学は令・丞・主簿若しくは尉を三献とせよ。社祭のように明衣を給せよ」と奏した。折しも皇太子の釈奠に際し、自ら初献となり祭酒張後胤を亜献、光州刺史摂司業趙弘智を終献とした。
- 永徽中、また周公を先聖、孔子を先師とし、顔回・左丘明以下をいずれも従祀とした。顕慶二年、太尉長孫无忌らが「礼に『その先師を釈奠す』とある。礼には高堂生、楽には制氏、詩には毛公、書には伏生があるとする。また礼に『学を始めて立てれば先聖を釈奠す』とあり、鄭氏は『周公・孔子のようなものである』と注する。ゆえに貞観では夫子を聖とし衆儒を先師とした。しかも周公は礼楽を作ったのだから王者の祀に同じるべきだ」と言い、そこで周公を武王に配し孔子を先聖とした。
- 総章元年、太子弘が学で釈奠を行い、顔回を太子少師に、曾参を少保に贈った。咸亨元年、州県にいずれも孔子廟を営むことが詔された。武后の天授元年、周公を褒徳王に、孔子を隆道公に封じた。神龍元年、鄒・魯の百戸を隆道公の采邑とし歳祀を奉らせ、子孫は代々褒聖侯を襲うこととした。睿宗の太極元年、兗州隆道公の近祠戸三十を灑掃に供し、顔回に太子太師を、曾参に太子太保を追贈し、いずれも配享とした。
- 玄宗の開元七年、皇太子が学に齒冑し先聖に謁し、宋璟を亜献、蘇頲を終献とすることが詔された。享に臨み、天子は齒冑の義を思い二献をいずれも冑子に用いることを詔し、先聖を釈奠のように祀った。右散騎常侍褚无量が孝経・礼記文王世子篇を講じた。
- 翌年、司業李元瓘が「先聖廟は十哲の象を置き先師顔子を配としているが、配の象は坐すべきところ今は立って侍している。他の弟子の像は廟堂に列するが享に与らず、范甯らはみな従祀されている。釈奠には十哲を上に享らせ七十子を壁に図するのがよい。曾参は孝をもって夫子から経を受けたので、二十二賢のように享らせたい」と奏した。そこで十哲を坐像とし悉く豫祀させることが詔された。曾参は特別に像を作りその坐を亜とした。七十子及び二十二賢を廟壁に図した。
- 二十七年、夫子はすでに先聖と称されているが謚して文宣王とし、三公に節を持たせ冊命を遣わし、その嗣を文宣公として州長史に任じ代々絶やさないことが詔された。かつて孔廟では周公が南面し夫子は西墉の下に坐していた。貞観中に周公の祭りが廃されたが夫子の位は改まらなかった。ここに至って二京の国子監・天下の州県で夫子が初めていずれも南向きとなり、顔淵を配とした。諸弟子に爵位が贈られ公侯とされた。子淵は兗公、子騫は費侯、伯牛は鄆侯、仲弓は薛侯、子有は徐侯、子路は衞侯、子我は齊侯、子貢は黎侯、子游は呉侯、子夏は魏侯。また曾参以下六十七人にも贈られた――参は成伯、顓孫師は陳伯、澹台滅明は江伯、密子賤は単伯、原憲は原伯、公冶長は莒伯、南宮适は郯伯、公晳哀は郳伯、曾点は宿伯、顔路は杞伯、商瞿は蒙伯、高柴は共伯、漆雕開は滕伯、公伯寮は任伯、司馬牛は向伯、樊遅は樊伯、有若は卞伯、公西赤は邵伯、巫馬期は鄫伯、梁鱣は梁伯、顔柳は蕭伯、冉孺は郜伯、曹卹は豊伯、伯虔は鄒伯、公孫龍は黄伯、冉季産は東平伯、秦子南は少梁伯、漆雕斂は武城伯、顔子驕は琅邪伯、漆雕徒父は須句伯、壤駟赤は北徴伯、商沢は睢陽伯、石作蜀は郈邑伯、任不齊は任城伯、公夏首は亢父伯、公良孺は東牟伯、后処は営丘伯、秦開は彭衙伯、奚容蒧は下邳伯、公肩定は新田伯、顔襄は臨沂伯、鄡単は銅鞮伯、句井彊は淇陽伯、罕父黒は乗丘伯、秦商は上洛伯、申党は召陵伯、公祖子之は期思伯、栄子旗は雩婁伯、県成は鉅野伯、左人郢は臨淄伯、燕伋は漁陽伯、鄭子徒は滎陽伯、秦非は汧陽伯、施常は乗氏伯、顔噲は朱虚伯、歩叔乘は淳于伯、顔之僕は東武伯、原亢籍は萊蕪伯、楽欬は昌平伯、廉絜は莒父伯、顔何は開陽伯、叔仲会は瑕丘伯、狄黒は臨済伯、邽巽は平陸伯、孔忠は汶陽伯、公西与如は重丘伯、公西蒧は祝阿伯。ここに至り二京の祭りは牲に太牢、楽に宮県、舞に六佾を用いた。州県の牲は少牢とし楽はなかった。
- 二十八年、春秋の二仲上丁には三公を摂事とし、もし大祀と重なれば中丁を用いること、州県の祭りは上丁とすることが詔された。上元元年、肅宗は旱により中祀・小祀を罷めたが、文宣の祭りだけは仲秋に至ってもなお太学で行われた。永泰二年八月、国学の祠堂の修築が成り、祭酒蕭昕が初めて釈奠を奏し、宰相元載・杜鴻漸・李抱玉及び常参官・六軍将軍が観に来た。二京が復されて以来、正会の楽だけが宮県を用い、郊廟の享では登歌のみで文武二舞も具えられなかった。ここに至り魚朝恩が監事を典り、論堂に宮県を奏させ教坊の工伎を雑えた。貞元九年季冬、貢挙人が先師に謁する日は親享廟と同じであったが、有司が上丁の釈奠は大祠と同じであるとして中丁を用いることとなり、それから改めて日を用いて学に謁することとなった。元和九年、礼部が貢挙人の先師謁見を奏したが、これ以後は行われなくなった。
武成王廟(太公望廟)の沿革
- 開元十九年、初めて太公尚父廟が置かれ留侯張良を配とした。中春・中秋の上戊に祭り、牲・楽の制は文宣に倣った。出師して将を命じるとき、発する日に廟で辞を引いた。あわせて古の名将十人を十哲として配享させた。天宝六載、諸州の武挙人が省に上る際、まず太公廟に謁することが詔された。乾元元年、太常少卿于休烈が「秋に漢祖廟を享る際、傍らに侍臣がないのに太公には張良が配とされている。子房は漢初に生まれ高祖を佐けて天下を定めたが、その時太公とは接していない。古の配食廟庭はみな佐命の臣に限るが、太公は人臣であり誼として配享すべきでない。張良を漢祖廟に配されたい」と奏した。
- 上元元年、太公を武成王と尊し祭典は文宣王に比し、歴代の良将を十哲として坐像で侍らせることとした。秦の武安君白起・漢の淮陰侯韓信・蜀の丞相諸葛亮・唐の尚書右僕射衞国公李靖・司空英国公李勣を左に列し、漢の太子少傅張良・斉の大司馬田穰苴・呉の将軍孫武・魏の西河守呉起・燕の昌国君楽毅を右に列し、張良を配とした。後に中祀を罷め祭られなくなった。
- 建中三年、礼儀使顔真卿が「武成廟を治め、月令の春秋釈奠のように請う。追封に王を用いる以上、諸侯の数を用い楽は軒県を奏すべき」と奏した。史館に配享すべき者を考定させることが詔され、古今の名将六十四人を列んで図形とした。越の相国范蠡、斉の将孫臏、趙の信平君廉頗、秦の将王翦、漢の相国平陽侯曹参・左丞相絳侯周勃・前将軍北平太守李広・大司馬冠軍侯霍去病、後漢の太傅高密侯鄧禹・左将軍膠東侯賈復・執金吾雍奴侯寇恂・伏波将軍新息侯馬援・太尉槐里侯皇甫嵩、魏の征東将軍晋陽侯張遼、蜀の前将軍漢寿亭侯関羽、呉の偏将軍南郡太守周瑜・丞相婁侯陸遜、晋の征南大将軍南城侯羊祜・撫軍大将軍襄陽侯王濬、東晋の車騎将軍康楽公謝玄、前燕の太宰録尚書太原王慕容恪、宋の司空武陵公檀道済、梁の太尉永寧郡公王僧辯、北斉の尚書右僕射燕郡公慕容紹宗、周の大冢宰斉王宇文憲、隋の上柱国新義公韓擒虎・柱国太平公史万歳、唐の右武候大将軍鄂国公尉遅敬徳・右武衛大将軍邢国公蘇定方・右武衛大将軍同中書門下平章事韓国公張仁亶・兵部尚書同中書門下三品中山公王晙・夏官尚書同中書門下三品朔方大総管王孝傑を左に、斉の相管仲・安平君田単、趙の馬服君趙奢・大将軍武安君李牧、漢の梁王彭越・太尉条侯周亜夫・大将軍長平侯衞青・後将軍営平侯趙充国、後漢の大司馬広平侯呉漢・征西大将軍夏陽侯馮異・建威大将軍好畤侯耿弇・太尉新豊侯段熲、魏の太尉鄧艾、蜀の車騎将軍西郷侯張飛、呉の武威将軍南郡太守孱陵侯呂蒙・大司馬荊州牧陸抗、晋の鎮南大将軍当陽侯杜預・太尉長沙公陶偘、前秦の丞相王猛、後魏の太尉北平王長孫嵩、宋の征虜将軍王鎮悪、陳の司空南平公呉明徹、北斉の右丞相咸陽王斛律光、周の太傅大宗伯燕国公于謹・右僕射鄖国公韋孝寛、隋の司空尚書令越国公楊素・右武候大将軍宋国公賀若弼、唐の司空河間郡王孝恭・礼部尚書聞喜公裴行倹・兵部尚書同中書門下三品代国公郭元振・朔方節度使兼御史大夫張斉丘・太尉中書令尚父汾陽郡王郭子儀を右に列した。
- 貞元二年、刑部尚書関播が「太公は古より大賢と称されているのに亜聖を置くのは義において穏当でない。しかも仲尼の十哲はいずれも当時の弟子であるのに、今、異なる時代の名将をその弟子の列に加えるのは類でない。古今の名将を配享に用いるだけとし、亜聖・十哲の名は去るべき」と奏した。これ以後、ただ武成王及び留侯のみを享り、諸将は再び祭られなくなった。
- 四年、兵部侍郎李紓が「開元中、太公廟は張良を配とし太常卿・少卿を三献とし、祝文には『皇帝、某を遣わし敢へて昭告す』とあった。上元元年に至り太公に王爵を贈り祭典を文宣と同じくして以来、有司はついに太尉を献官とし祝版に親署させるようになった。太公は周の太師、張良は漢の少傅に過ぎないのに、今、至尊が臣佐に礼を屈しているとは、神がどうして歆けようか。しかも文宣は百世が宗とする所であるため楽に宮県を用い献に太尉を用いるのは師を尊び道を崇めるゆえである。太公の著述は六韜に止まりその勲業も一代のみである。祝辞は進署せず昭告を敬祭に、留侯には致祭にと改め、献官には太常卿以下を用いられたい」と言った。百官がこれを議し、多くは紓の言のように請うた。左司郎中厳涗らは「紓が援用した典訓尊卑の節は当を得ているが、なお尽くされないところがある。大名徽号はいたずらに美を虚しくすべきでないが、太公は兵権奇計の人に過ぎず、殷の失徳に諸侯が周に帰した際、佐命となったに過ぎない。祀典に『法を人に施せば祀る』とあるではないか。仲尼が堯舜を祖述し文武を憲章とし詩書を刪り礼楽を定め、君君・臣臣・父父・子子をみな宗とさせたのは、まさに法を人に施したものである。貞観中、太公を兵家の流としてはじめ磻渓に廟を立てさせた。開元になり漸く上戊の釈奠礼が著されたが、その進めは薄くない。上元の際、執事者がいたずらに兵に意を用い王爵を封じ号を文宣に擬えたが、それは聖人と比するものではない。武成王の号を去り太公廟に復し、奠享の制は紓の請のようにするのがよい」と議じた。刑部員外郎陸淳らは「武成王は殷の臣であり、紂の暴を諫めずして周を佐けこれを傾けた。道を尊ぶ者はその人を師とするものであるが、天下の人がこの廟に入りこの堂に登りその人を稽えその道を思うようであれば、節を立て義に死す士はどうして奮い立てようか。聖人が堯舜を宗とし夷・斉を賢とし、桓・文を法とせず伊尹を賛えないのは、まさにこれを言うものである。武成の名を文宣に偶するのは不刊の典ではない。愚見では、上元の追封・立廟を罷め磻渓の祠に復し、有司が時享とするのがよい」と議じた。左領軍大将軍令狐建ら二十四人は「兵革がいまだ靖まらないのだから武を右にして忠烈を起こすべきである。今、特にこれを貶損するのは勧めにならない。しかも王爵を追い時に祠り武教の主とし、文武ともに宗とするのは典礼としてすでに久しい、これを改めるのは非である」と議じた。そこで将軍を献官とし他は紓の奏のように用いることが詔された。これ以後、上将軍・大将軍・将軍を三献とした。
五岳・四鎮の祭祀
- 五岳・四鎮は歳ごとに一祭し、それぞれ五郊の迎気の日に祭る。東岳岱山は兗州で、東鎮沂山は沂州で、南岳衡山は衡州で、南鎮会稽は越州で、中岳嵩高は河南で、西岳華山は華州で、西鎮呉山は隴州で、北岳常山は定州で、北鎮医無閭は営州で祭る。東海は莱州で、淮は唐州で、南海は広州で、江は益州で、西海及び河は同州で、北海及び済は河南で祭る。