懿宗――出自と生い立ち
- 懿宗李漼、宣宗の長子。母は元昭皇太后鼂氏。始め鄆王。宣宗は夔王滋を愛し皇太子に立てようとしたが、鄆王が年長であったため久しく決しなかった。大中十三年八月、宣宗の病篤きに際し、左神策護軍中尉王宗実らが矯詔により鄆王を皇太子に立て即位させた。王宗実は王帰長・馬公儒・王居方ら夔王擁立派を殺した。
懿宗――咸通年間(860~874年)
- 浙東で仇甫の反乱があり王式が討伐した。雲南蛮がしばしば安南・播州・巂州・邕州などを侵し、高駢・李鄠らが対処、咸通七年、高駢が安南を克復した。咸通九年、武寧軍の龐勛が桂州で反乱し宿州・徐州・濠州などを陥し、康承訓・戴可師・馬挙らが討伐、咸通十年九月、龐勛は誅された。魏博・幽州盧龍軍などで留後の交代が相次いだ。李徳裕系・牛僧孺系の党争(牛李の党争)を背景に、路巌・韋保衡・王鐸ら宰相の任免が繰り返された。仏骨を鳳翔から迎えるなど仏教信仰も続いた。咸通十四年七月、皇帝崩御、享年四十一。
僖宗――出自と生い立ち
- 僖宗李儇、懿宗の第五子。母は恵安皇太后王氏。始め普王、名は儼といった。咸通十四年七月、懿宗の病篤きに際し左右神策護軍中尉劉行深・韓文約が普王を皇太子に立て即位させた。
僖宗――乾符年間(874~879年)
- 改元。裴坦・劉瞻・崔彦昭・鄭畋・盧携らが宰相を歴任した。乾符元年、王仙芝が濮州で挙兵、曹州・濮州を陥した。乾符二年、黄巣が仙芝に呼応し曹州・濮州で挙兵。浙西で王郢の反乱もあった。乾符三年、仙芝が汝州・郢州・復州・申州・光州など多くの州を陥し、宋威・曾元裕らが討伐に向かった。乾符四年、黄巣が鄆州・沂州を陥し、勢力を拡大した。乾符五年、王仙芝が申州で敗れ二月に伏誅、残党は黄巣に合流した。黄巣は各地を転戦し杭州・福州などを陥した。李克用の父子も大同軍で自立の動きを見せた。
僖宗――広明元年(880年)
- 改元。黄巣が江南・江西を席巻し、七月には江陵を陥した。十一月、黄巣が潼関を陥し、十二月、京師(長安)を陥落させた。皇帝は成都へ避難、多くの重臣(豆盧瑑・崔沆・劉鄴・于琮ら)が黄巣軍に殺された。
僖宗――中和年間(881~885年)
- 中和元年、成都に在り、鄭畋が鳳翔で黄巣軍を龍尾坡に破るなど各地で反撃が始まった。李克用(沙陀)が官軍に加わり黄巣討伐に貢献した。中和二年、朱温(後の朱全忠)が黄巣軍から同州を挙げて降った。中和三年、李克用が黄巣を零口・渭南で破り、京師を回復した。黄巣は東方へ敗走し、中和四年七月、黄巣は伏誅した(黄巣の乱終息)。乱の間、各地で群小の反乱・軍閥の割拠が相次ぎ、秦宗権・朱全忠・李克用・楊行密・銭鏐・董昌ら後の五代十国につながる群雄が台頭した。
僖宗――光啓年間(885~888年)
- 光啓元年、成都から長安へ帰還。しかし河中の王重栄、河東の李克用らと朝廷(田令孜)の対立が深まり、光啓二年、朱玫が嗣襄王熅を擁立して皇帝を僭称する事件が起きたが、光啓三年末、朱玫・熅ともに誅された。この間、秦宗権が各地を席巻し多くの州県を陥した。
僖宗――文徳元年(888年)
- 二月、成都から長安へ帰還し大赦改元。魏博で楽彦禎が殺され羅弘信が留後となるなど、各地の藩鎮でなお内訌・簒奪が続いた。三月戊戌、日食があった。壬寅、病が篤くなり壽王傑(後の昭宗)を皇太弟に立てた。癸卯、武徳殿で崩御、享年二十七。
史論
- 賛にいう。唐は穆宗以来八代を経たが、そのうち宦官によって擁立された君主は七人に及ぶ。唐の衰亡は方鎮の患いにとどまるものではなかった。朝廷は天下の本であり、人君は朝廷の本であり、即位の始めが人君の本である。その本が始めから正しくなければ、天下を正そうとしても叶うはずがない。懿宗・僖宗は唐の政治が衰え始めた時期に当たり、二代にわたって昏庸な君主が相継いだ。乾符年間には大旱・蝗害が起こり民は愁い盗賊が起こって、その乱はついに支えきれぬまでに至った。これもまた天と人との巡り合わせであろうか。