新唐書卷五 本紀第五 睿宗・玄宗

睿宗――出自と生い立ち

  • 睿宗李旦、高宗の第八子。初め殷王に封じられ冀州大都督・単于大都護を領した。長じて温恭好学、訓詁に通じ草隷書を能くした。豫王・冀王を経て相王に徙封、再び豫王に封じられた。武后が中宗を廃し自ら即位すると、国号を周と改め皇嗣として東宮に居らせた。中宗が房州から還ると再び皇太子となり、武后は皇嗣を相王として太子右衛率を授けた。中宗の復位後、安国相王の号を進めた。

睿宗――景雲元年(710年)

  • 六月壬午、韋皇后が中宗を弑し、矯詔により温王重茂を皇太子に立てた。韋温らが内外の兵馬を掌握した。皇太子が即位(少帝)し睿宗が参謀政事、太后(韋后)が臨朝摂政した。庚子、臨淄郡王隆基(後の玄宗)が万騎の兵を率いて北軍に入り討亂、韋氏・安楽公主・韋巨源・馬秦客・武延秀・楊均らを誅した。睿宗が皇帝を安福門に奉じ大赦。甲辰、安国相王が承天門で即位し、大赦。重茂を再び温王とした。丁未、平王隆基を皇太子に立てた。

睿宗――景雲二年(711年)

  • 皇太子が監国。魏知古・韋安石ら宰相の交代が相次いだ。

睿宗――先天元年(712年)

  • 正月、太極と改元。五月、延和と改元。八月庚子、皇太子(隆基)を皇帝に立て小事を聴かせ、自らは太上皇として大事を聴くこととした。皇太子妃王氏を皇后に立てた。孫嗣直を郯王、嗣謙を郢王、嗣昇を陝王に封じた。十一月、宋璟・薛訥らを辺境防備の大総管とし皇帝(玄宗)が巡辺した。

玄宗――出自と生い立ち

  • 玄宗李隆基、睿宗の第三子。母は昭成皇后竇氏。性は英武で騎射を善くし、音律・暦象の学に通じた。始め楚王、後に臨淄郡王に封じられた。景龍四年、京師に留まり、庶人韋氏が中宗を弑し矯詔して称制すると、太平公主の子薛崇簡や劉幽求・鍾紹京らと討亂を策した。「請うて従われねば王を危事に巻き込み、従わねば我が計は失敗する」と述べ、夜に苑中へ入り万騎兵を率いて玄武門を攻め韋氏を誅した。相王(睿宗)に「頼りとなって免れた、さもなくば我も難に及んだ」と言わしめ、平王に封じられ同中書門下三品となった。睿宗即位後、皇太子に立てられ、景雲二年に監国、先天元年八月に皇帝に即位した。

玄宗――先天元年(712年)

  • 十月庚子、太廟で享り大赦。

玄宗――開元元年(713年)

  • 七月、太平公主・岑羲・蕭至忠・竇懐貞の謀反が誅された(先天の政変)。始めて聴政。大赦。天枢を毀した。八月、劉幽求が尚書右僕射として軍国大事を知った。十月、郭元振が新州に流された。十二月、大赦改元、中書省を紫微省、門下省を黄門省と改名した。

玄宗――開元二年(714年)

  • 薛訥が奚・契丹と灤河で戦い敗績した。突厥が北庭を侵したが郭虔瓘がこれを破った。薛訥が吐蕃を武階で破った。

玄宗――開元三年(715年)

  • 郢王嗣謙を皇太子に立てた。突厥に備え薛訥・郭虔瓘らを配した。

玄宗――開元四年(716年)

  • 太上皇(睿宗)が崩御した。郝霊佺が突厥默啜を殺した。奚・契丹が降った。

玄宗――開元五年(717年)以降

  • 東都への行幸が続いた。太廟の破損などがあった。姚崇・宋璟・蘇頲ら賢相が相次いで登用・罷免された。

玄宗――開元八年~十年(720~722年)

  • 突厥・契丹が辺境を侵し、王晙・張説らが対応した。蘭池胡康待賓の乱を王晙が鎮圧した。

玄宗――開元十一年~十三年(723~725年)

  • 幷州を北都とした。汾陰で后土を祀った。開元十三年十一月、泰山で封禅を行い大赦、天下に酺を賜った。

玄宗――開元十四年~十七年(726~729年)

  • 高昌討伐、吐蕃との攻防が続いた。張説が中書令等の要職を歴任した。

玄宗――開元十八年~二十年(730~732年)

  • 忠王浚(後の粛宗)が河北道行軍元帥を兼ねた。信安郡王禕が奚・契丹を薊州で破った。

玄宗――開元二十一年~二十四年(733~736年)

  • 韓休・張九齢・李林甫らが宰相に任じられた。北庭都護劉渙の謀反が誅された。

玄宗――開元二十五年(737年)

  • 皇太子瑛および鄂王瑤・光王琚が廃されて庶人となり、みな殺された。

玄宗――開元二十六年(738年)

  • 忠王璵(後の粛宗)を皇太子に立てた。

玄宗――開元二十七年~二十九年(739~741年)

  • 蓋嘉運が突騎施を破りその可汗吐火仙を捕らえた。壽王妃楊氏(楊貴妃)を道士として号を太真とした。

玄宗――天宝元年(742年)

  • 大赦改元。侍中を左相、中書令を右相、東都を東京、州を郡、刺史を太守と改称した。

玄宗――天宝二年~四載(743~745年)

  • 「大聖祖」の号を玄元皇帝に加えるなど道教尊崇が進んだ。皇甫惟明が吐蕃を破り洪済城を克復した。楊太真を貴妃に立てた。契丹・奚が公主を殺して叛いた。

玄宗――天宝五載~九載(746~750年)

  • 韋堅・皇甫惟明・李邕・裴敦復ら多くの重臣が殺された。李林甫の専権が続いた。高仙芝が小勃律国を破った。

玄宗――天宝十載~十二載(751~753年)

  • 高仙芝が突騎施可汗・石国王を捕らえたが、大食(アッバース朝)と恒邏斯城で戦い敗績した。安禄山が契丹と戦い敗績した。鮮于仲通・李宓が雲南蛮に大敗した。李林甫が薨じ楊国忠が右相となった。

玄宗――天宝十三載~十四載(754~755年)

  • 哥舒翰が吐蕃を破り河源九曲を回復した。安禄山が契丹を破った。十一月、安禄山が反乱、河北諸郡を陥した。封常清・高仙芝が討伐に向かったが敗れ誅された。

玄宗――天宝十五載(756年)

  • 安禄山が東京・恒山郡などを陥し、顔杲卿・袁履謙らが捕らえられた。郭子儀・李光弼が各地で反撃し常山郡などを克復した。哥舒翰が潼関を守ったが六月、霊宝西原で敗績、潼関・上洛郡が陥落。玄宗は蜀へ避難、途中の馬嵬駅で楊国忠・楊貴妃らが殺された(馬嵬の変)。皇太子(粛宗)は霊武で即位し、玄宗は「上皇天帝」となった。永王璘が反乱を起こし廃されて庶人となった。

玄宗――至徳二載(757年)

  • 十月、京師が回復され、玄宗は蜀郡から帰還する運びとなった。十二月、興慶宮に居した。

玄宗――晩年

  • 上元元年、西内甘露殿に移居。宝応元年建巳月、神龍殿で崩御、享年七十八。

史論

  • 賛にいう。睿宗はその子(玄宗)の功によって位に就いたが在位が短く、称すべきことは少ない。ああ、女子の禍は人に及ぶこと甚だしい。高祖から中宗に至る数十年の間、二度も女禍に見舞われ、唐の命脈は絶えかけては続いた。中宗は身を全うできず、韋氏はついに一族滅亡に至った。玄宗は自らその乱を平定した身でありながら、再び女子によって身を誤らせた。開元の初め、政に励み天下太平に近づいたその盛んさは大変なものであった。しかし奢侈の心が一度動くと、天下の欲を尽くしても満たされず、最も愛する者に溺れて戒めを忘れ、ついに身を失い国を失うに至っても悔いなかった。その始終の異なりは、性情の隔たりがここまで大きいということである。慎まねばならぬ、慎まねばならぬ。