新唐書卷二 本紀第二 太宗

唐の第二代皇帝、太宗李世民(高祖の次男、?–649年)。母は太穆皇后竇氏。隋末唐初の統一戦争で薛仁杲・劉武周・王世充・竇建徳らを次々破って唐建国に大功をあげた。武徳九年の玄武門の変で兄弟を殺し皇太子となり、まもなく即位。以後「貞観の治」と称される治世を敷き、突厥・高昌・高麗などへの征戦を進め、唐の版図を大きく広げた。

年表(11件)

出自と生い立ち

  • 太宗李世民、高祖の次男。母は太穆皇后竇氏。生まれつき動じない性質で、四歳のとき書生が高祖に「貴人の相があり、必ず貴子を得るだろう」と告げ、太宗を見て「龍鳳の姿、天日の表、やがて必ず世を済い民を安んじる」と言った。その書生が姿を消したため神秘視され、その言葉から「世民」と名付けられた。
  • 大業年間、突厥が煬帝を鴈門で囲んだ際、十六歳で応募し将軍雲定興に属した。太宗は疑兵の計を献策し(旌旗を数十里にわたって並べ夜は鉦鼓を鳴らして大軍が来たと見せかける)、これにより突厥は撤退した。高祖が歴山飛の賊に囲まれた際は、太宗が軽騎で救出し大破した。
  • 太宗は聡明英武で大志を抱き、士人に対して謙虚であった。長孫順徳・劉弘基らの亡命者を匿い養い、晋陽令劉文静と親しく交わった。文静が獄に繋がれた際、太宗は夜に獄中で会い大事を図った。裴寂を通じて高祖に挙兵を勧めた。

挙兵から唐建国まで

  • 高祖挙兵後、太宗は西河を平定し右領軍大都督・燉煌郡公に封じられた。霍邑進軍の際、糧尽きて撤退しようとする高祖を諫め、涙をもって「還れば衆散じ敵が迫る」と説いた。宋老生との戦いでは南原から急襲し敵陣を分断してこれを斬った。長安攻略でも功をあげ、義寧元年に光禄大夫・唐国内史・秦国公に封じられた。薛挙を扶風で破り隴右へ進出、義寧二年には右元帥として東都を攻めたが克てず撤退、三王陵で隋将段達の軍一万を破った。

武徳元年(618年)以降の征戦

  • 尚書令・秦王として、薛挙・薛仁杲との戦いでは持久策により仁杲を降した。武徳二年、劉武周・宋金剛の乱に対し兵三万を得て柏壁に屯した。武徳三年、宋金剛を柏壁で破り、一昼夜で二百里を追撃、劉武周は突厥へ逃亡、幷州を回復した。同年七月、王世充討伐に向かい北邙で破った。

武徳四年(621年)

  • 竇建徳が十万の兵で王世充を救援に来たが、太宗は虎牢でこれを破り捕らえ、世充も降伏した。凱旋の後、天策上将の号を加えられ、司徒・陝東道大行台尚書令を兼ね、王公の上位に位置づけられた。

武徳五年(622年)以降

  • 武徳五年正月、劉黒闥を洺州で破った。高祖が建成の献策で黒闥降人を穴埋めにしようとした際、太宗は諫めて止めさせた。武徳七年、突厥と豳州で対峙し盟を結んだ。武徳八年、中書令に進んだ。太原挙兵以来の功により高祖はしばしば太子に立てると約したため、皇太子建成は廃されることを恐れ斉王元吉と共に太宗の暗害を謀ったが未発に終わった。

武徳九年(626年)

  • 六月、太宗は兵を率いて玄武門に入り、太子建成・斉王元吉を殺した。高祖は大いに驚き、太宗を皇太子に立てた。八月甲子、東宮顕徳殿で皇帝に即位。大赦し武徳流人を赦免、文武官に勲・爵を賜い、関内および蒲・芮・虞・泰・陝・鼎六州の租を二年免じ、天下に一年分の徭役を免除した。長孫氏を皇后に立て、突厥頡利と便橋で盟を結んだ。中山郡王承乾を皇太子に立てた。

貞観元年(627年)

  • 燕郡王李芸が涇州で反乱し誅された。婚姻適齢の男女に配偶を斡旋する詔を出した。長楽郡王幼良が誅された。山東の旱害には租を免除した。利州都督李孝常らの謀反が発覚し誅された。

貞観二年(628年)

  • 呉谷渾が岷州を侵したが道彦がこれを破った。突厥に備えて李靖を派遣。旱蝗により大赦した。梁師都の部下梁洛仁が師都を殺し降った。瀛州刺史盧祖尚が誅された。

貞観三年(629年)

  • 房玄齢を尚書左僕射、杜如晦を右僕射、魏徴を秘書監とし政務に参与させた。太上皇(高祖)は大安宮に移った。李靖を定襄道行軍大総管として突厥討伐を命じ、李世勣・柴紹・道宗・衛孝節・薛万淑らも各方面から出撃した。

貞観四年(630年)

  • 李靖が突厥を陰山で破り、突厥頡利可汗を捕らえて献上した。西北の君長は太宗に「天可汗」の号を上らせた。太上皇の不予に際し朝を廃したが快復した。天下の断死罪はわずか二十九人であったという。

貞観五年(631年)以降

  • 隋人で突厥に没した者を金帛で買い戻し帰国させた。決死刑には五覆奏(京師)・三覆奏(諸州)の制を定めた。

貞観六年(632年)

  • 静州の山獠が反乱し鎮圧された。侯君集が罷免後起復。諸羌の内属者三十万人に及んだ。

貞観七年(633年)

  • 東西洞獠が辺境を侵し、張士貴がこれを討った。京師で地震があった。

貞観八年(634年)

  • 皇太子が元服。吐谷渾が涼州を侵し、李靖・侯君集・道宗ら諸将を吐谷渾討伐に派遣した。

貞観九年(635年)

  • 党項羌が叛いた。太上皇(高祖)が五月に崩御し、皇太子(高宗ではなく太宗自身が聴政再開の意)が聴政した。李靖が吐谷渾を破った。太武皇帝(高祖)を献陵に葬った。

貞観十年(636年)

  • 諸王の徙封を行い、元景を荊王、泰を魏王、祐を斉王などとした。皇后(長孫氏)が崩御し、昭陵に葬った。

貞観十一年(637年)以降

  • 洛陽宮への行幸、九嵕山への陵墓造営、諸王・功臣を世封刺史とする制など、内政の整備が進んだ。穀・洛の水害では被災者を賑わせた。

貞観十二年(638年)

  • 吐蕃が松州を侵し、侯君集を当弥道行軍大総管として撃退させた。各地の山獠の反乱も相次いだ。

貞観十三年(639年)

  • 阿史那結社率の反乱が誅された。侯君集を交河道行軍大総管とし高昌討伐を命じた。

貞観十四年(640年)

  • 侯君集が高昌を克服し、高昌王を捕らえて献上した。国学での釈奠を観、学官・生徒に恩賞を与えた。

貞観十五年(641年)

  • 泰山での封禅を計画したが、彗星の出現により中止した。薛延陀が辺境を侵し、李世勣がこれを諾真水で破った。

貞観十六年(642年)以降

  • 西州への使者派遣、死罪囚の西州実配など辺境経営が進んだ。

貞観十七年(643年)

  • 魏徴が薨じた。凌煙閣に功臣の像を描かせた。斉王祐が反乱を起こし誅された。皇太子承乾は廃されて庶人となり、漢王元昌・侯君集らも誅された。晋王治が皇太子に立てられた。魏王泰は東莱郡王に降封された。

貞観十八年(644年)以降

  • 高麗遠征の準備が進められ、張倹・郭孝恪らが出撃した。李世勣・馬周らを遼東道行軍大総管として高麗討伐を発した。

貞観十九年(645年)

  • 太宗自ら高麗親征に赴き、蓋牟城・遼東城・白巌城を克服したが、安市城では大敗には至らぬまでも苦戦し、九月に班師した。

貞観二十年(646年)以降

  • 薛延陀討伐が行われ、李世勣・道宗らがこれを破った。鉄勒諸部は太宗に「可汗」の号を上らせ、鉄勒の地を州県とした。

貞観二十一年(647年)以降

  • 牛進達・李世勣らが再び高麗を討ち、南蘇・木底・石城などを克服した。契苾何力が亀茲討伐に向かった。

貞観二十二年(648年)

  • 房玄齢が薨じた。薛万徹が高麗を討ち泊灼城で破った。阿史那社爾が亀茲を破り、その王を捕らえて献上した。

貞観二十三年(649年)

  • 三月、病が篤くなり皇太子に聴政を委ねた。五月己巳、含風殿で崩御、享年五十三。諡は文。上元元年に文武聖皇帝、天宝八載に文武大聖皇帝、十三載に文武大聖大広孝皇帝と重ねて諡された。

史論

  • 賛にいう。至治の君主は世に稀である。禹・湯・武王の天下も、その中で著しく治績を称えられる者は六、七君にすぎない。唐は二十代を伝えたが、称すべき者は玄宗・憲宗・太宗の三君のみで、玄宗・憲宗はいずれも終わりを全うできなかった。太宗の盛業こそ格別であり、隋の乱を除いたことは湯・武に比すべく、その治績の美は成王・康王に近い。古来、功徳ともに兼ね備えた例は漢以来なかった。ただ多くの寵愛に流されて仏教を復興し、大功を好み遠征に兵を疲れさせたことは、中材の君主にありがちな欠点であった。しかし春秋の法は賢者にこそ完璧を求めるものであり、後世の君子はこの点を惜しんできた。