新唐書卷一 本紀第一 高祖

唐の初代皇帝、高祖李淵(字は叔徳、?–635年)。隴西成紀の人で、西魏八柱国の一人李虎の孫にあたる名族の出。隋末の混乱に乗じ太原で挙兵し、長安を攻略して隋を廃し、武徳元年に唐を建国した。武徳九年の玄武門の変を経て次男の世民(太宗)に譲位し、太上皇となった。

年表(10件)

出自と生い立ち

  • 高祖李淵、字は叔徳、隴西成紀の人。七代祖の李暠は東晋末に秦・涼の地に拠って自立し、涼武昭王と称した。暠の子歆は沮渠蒙遜に滅ぼされ、歆の子重耳は北魏の弘農太守となった。重耳の子熙は金門鎮将として武川に駐屯しそのまま土着した。熙の子天賜は幢主。天賜の子李虎は西魏で大野氏の姓を賜り、官は太尉に至り、李弼らとともに西魏を助けて八柱国の一人に数えられた。北周の閔帝が魏の禅譲を受けたとき李虎は既に没しており、功により唐国公に追封され、諡は襄。襄公の子昞は唐公を襲封し、北周の安州総管・柱国大将軍となり、諡は仁。
  • 仁公(李昞)は長安で高祖を生んだ。高祖は生まれつき乳が三つあり、性質は寛仁で、唐公を襲封した。隋の文帝の独孤皇后は高祖の従母(伯母)にあたり、文帝と高祖は親しく愛し合った。文帝が北周の相となると高祖に李氏の姓を復させ、千牛備身とし、隋の譙州・隴州の刺史に仕えさせた。
  • 大業年間、岐州刺史、滎陽・楼煩二郡太守を歴任し、召されて殿内少監・衛尉少卿となった。煬帝が遼東を征したとき、高祖は懐遠鎮への糧運を督した。楊玄感が反乱を起こした際、遼東従軍中のその兄弟は逃げ帰ったが、高祖はいち早く察知して報告し、煬帝は急ぎ班師、高祖を弘化留守として玄感に備えさせ、関右諸郡の兵を高祖の指揮下に置いた。
  • 隋政が乱れ天下大乱となり、煬帝は猜疑から多くの大臣を殺した。あるとき高祖を召したが、高祖は病と称して謁見しなかった。高祖の甥の王氏が後宮におり、煬帝が病状を問うと「死にそうか」と言い、高祖はこれを聞いて益々恐れ、酒色に耽って韜晦した。
  • 大業十一年、山西河東慰撫大使となり、龍門の賊母端児を撃ち七十発すべて命中させて破り、その屍を集めて京観を築いた。また絳州の賊柴保昌を撃ち数万の衆を降した。突厥が塞を犯した際は馬邑太守王仁恭とともにこれを撃った。隋兵は少なく不利であったが、高祖は精鋭二千を選んで遊軍とし、突厥風の暮らしぶりを装って油断を誘い、伏兵で奇襲して突厥を敗走させた。

太原挙兵と唐の建国

  • 大業十三年、太原留守となり、高陽の歴山飛の賊甄翟児を西河で破った。煬帝は江都へ南遊し天下に盗賊が起こった。高祖の子李世民は隋の滅亡を見越し、密かに豪傑を結び亡命者を招き、晋陽令劉文静と挙兵を謀った。計画が定まった後、裴寂を通じて高祖に告げると、高祖は初め怒り世民を処断しようとしたが、やがて許した。
  • 当時、劉武周が馬邑に、林士弘が豫章に、劉元進が晋安に起こり皆皇帝を称し、朱粲は南陽で楚帝、李子通は海陵で楚王、邵江海は岐州で新平王、薛挙は金城で西秦覇王、郭子和は榆林で永楽王、竇建徳は河間で長楽王、王須抜は恆・定で漫天王、汪華・杜伏威は淮南で呉王、李密は鞏で魏公、王徳仁は鄴で太公、左才相は斉郡で博山公と、それぞれ号し、羅芸・左難当・馮盎らは総管、梁師都は大丞相、その他各地に群盗が割拠した。劉武周が汾陽宮を攻めると、高祖は将吏を集め「留守として賊が離宮を犯すのを誅さねば死罪、しかし出兵には上奏の裁可を待たねばならず、江都は遠い」と述べ、将吏は「専断できるのは公のみ」と応じ、旬日で一万の兵を得た。副留守の王威・高君雅がこれを怪しみ高祖を図ろうとしたが、高祖は察知し備えた。
  • 大業十三年五月、高祖は劉政会の告発により王威・高君雅を捕らえ、突厥犯塞を口実に両名を殺して挙兵した。劉文静を突厥に遣わし連和を約した。六月、諸郡に檄を伝え義兵と称し、大将軍府を開き三軍を置いた。子の建成を隴西公・左領軍大都督、世民を燉煌公・右領軍大都督、元吉を姑臧公とし、裴寂を長史、劉文静を司馬とした。倉庫を開いて窮乏を賑わせた。
  • 七月、高祖は白旗を杖として誓師し、兵三万を率いて太原を発した。八月、宋老生を霍邑で破り、臨汾・絳郡を下した。九月、河を渡り長春宮に至った。世民は渭北から三輔を略定し、女の柴氏婦や従弟李神通も呼応して挙兵、鄠・杜を平定した。十月、長楽宮に至り兵二十万を擁して京城を囲んだ。十一月、京城を克服し、法十二条を約して秩序を保ち、隋帝(恭帝)を太上皇に、代王侑を皇帝に立て、義寧と改元、高祖自身は仮黄鉞・大丞相・唐王に進んだ。
  • 義寧二年正月以降、隋帝は唐王に剣履上殿・入朝不趨の礼を許し、三月には宇文化及が江都で煬帝を弑して秦王浩を立てたと伝わった。五月、隋帝は唐王に譲位し、武徳元年五月甲子、高祖は太極殿で皇帝に即位、大赦して武徳と改元、郡を州、太守を刺史に改めた。

武徳元年(618年)

  • 六月、世民を尚書令、裴寂を尚書右僕射、劉文静を納言、蕭瑀・竇威を内史令とし、皇高祖以下歴代の祖を追諡した。建成を皇太子、世民を秦王、元吉を斉王に立てた。薛挙が涇州に侵攻し、世民を西討元帥として迎撃させたが、七月に劉文静は敗れた。八月、薛挙が没し、九月、竇軌が薛仁杲に敗れた。宇文化及は秦王浩を殺して自ら皇帝を称した。十一月、世民が薛仁杲を破りこれを捕らえた。李密が降ったが十二月に反して誅された。竇建徳は幽州で王須抜を破り、高開道は漁陽を陥れて燕王と称した。

武徳二年(619年)

  • 各地の群雄・群盗が離合を繰り返した。竇建徳が邢州・趙州などを陥し宇文化及を聊城で殺した。劉武周は幷州の大半を陥落させ、朱粲は殺人を重ねて自立を称し、王世充は越王侗を廃し自ら皇帝を称した。李子通・沈法興らも各地で自立した。年末、劉武周・宋金剛は幷州を席巻し、唐の永安王孝基らが敗れるなど唐は苦戦した。

武徳三年(620年)

  • 独孤懐恩・劉師善らの謀反が発覚し誅された。四月、世民が宋金剛を雀鼠谷で破り、劉武周は突厥へ逃亡、幷州を回復した。七月以降、世民は王世充討伐に向かい各地で勝利を重ねた。竇建徳の勢力も各地を席巻したが、唐軍はこれに対抗し続けた。

武徳四年(621年)

  • 五月、世民は竇建徳を虎牢で破りこれを捕らえ、王世充も降伏した。七月、竇建徳は誅された。劉黒闥が貝州で反乱を起こし、各地の郡県を陥落させて唐にとり大きな脅威となった。十月、世民は天策上将に任じられ、司徒を兼ねた。趙郡王孝恭は蕭銑を荊州で破りこれを捕らえた。

武徳五年(622年)

  • 劉黒闥の乱が各地に拡大し、洺州・冀州・相州・魏州など多くの州県が陥落し唐将が次々戦死した。三月、世民は劉黒闥を洺水で破り、黒闥は突厥へ逃れた。高開道も蔚州で反した。徐円朗も反乱に加わったが、李世勣らがこれを討った。

武徳六年(623年)

  • 正月、黒闥の部将葛徳威が黒闥を捕らえて降り、二月に黒闥は誅された。李世勣が徐円朗を破り捕らえた。三月、苗海潮・梅知巌・左難当らが降った。張善安が反乱を起こし孫州を陥した。八月、輔公祏が反乱を起こし、趙郡王孝恭がこれを討伐した。

武徳七年(624年)

  • 三月、趙郡王孝恭が輔公祏を破り捕らえた。四月、大赦し新律令を頒布した。楊文幹が慶州で反乱を起こしたが鎮圧された。以後、突厥との攻防が続いた。

武徳八年(625年)

  • 突厥がたびたび侵攻し、幷州で唐軍が敗れ鄆州都督張徳政が戦死するなど苦戦したが、任城郡王道宗が霊州で突厥を破るなど巻き返した。裴矩が罷免され、秦王世民が中書令、斉王元吉が侍中となるなど、皇族内での権力配置が進んだ。

武徳九年(626年)

  • 二月、金星が昴宿に現れる兆しがあった。六月庚申、秦王世民が皇太子建成・斉王元吉を殺害する事件(玄武門の変)が起きた。大赦の後、世民は皇太子に立てられ聴政を始めた。廬江郡王李瑗が幽州で反乱を起こし誅された。八月甲子、皇太子(世民)が皇帝に即位し(太宗)、高祖は太上皇となった。

太上皇期

  • 貞観三年、太上皇は大安宮に移り居した。貞観九年五月、垂拱前殿で崩御、享年七十一。諡は太武、廟号は高祖。上元元年に神堯皇帝と改諡、天宝八載に神堯大聖皇帝、十三載に神堯大聖大光孝皇帝と重ねて諡された。

史論

  • 賛にいう。古来、天命を受けて興った君主は、徳がなければ王たりえない。夏后氏以来、世を伝えて賢愚の差があり、その治世の長短も一様ではない。論者は周が后稷から文王・武王に至るまで功徳を積み重ねたため世が長く続いたというが、世本を考えれば夏・商・周はみな黄帝より出て、夏の鯀以前、商の契から成湯に至るまでは事跡が乏しく、周の興隆とは事情が異なる。漢もまた亭長・叛亡の徒から興ったが、天下を得てからは数百年続いた。天命は容易には知り難いものである。しかし治乱の終始と制度紀綱の在り方を考えれば、徳があれば興り、徳がなければ絶える。唐は周・隋の間にあって、家柄こそ貴かったが功徳を積み重ねた家系というわけではなく、高祖の興隆もまた時流に乗って興った者と異ならない。しかし治乱盛衰を経ながらも天下を保つこと三百年に近く、盛んというべきである。これは人々が隋の乱を厭い徳沢を蒙り、太宗の治世が続き、制度紀綱の法が後世の拠り所となったからではないか。