晉書卷百二十五 載記第二十五 乞伏熾磐

西秦の拡大(410年ごろ)

  • 乞伏熾磐、乾歸の長子。勇果で決断力に優れた。父の敗戦時には人質として各地を転々としたが、乾歸の復権後は太子・録尚書事となった。
  • 乾歸の死(義熙6年=410年)後、即位(永康と改元)。吐谷渾・休官・羌族などへの遠征を重ねて勢力を拡大し、禿髮傉檀の後継争いに乗じて楽都を攻略、傉檀を降した。沮渠蒙遜とは和親を結ぶなど外交も駆使した。
  • 元熙元年(419年)息子慕末を太子とし改元(建弘)。在位期間中に東晋から劉宋への易姓(420年)を挟み、宋の元嘉4年(427年)死去。子の慕末が跡を継いだが在位4年で赫連定に討たれ、國仁以来4代46年で西秦は滅亡した。

史論

  • 史臣は、晋室の混乱に乗じ國仁が辺境で勢力を得たものの、大義に乏しく雄略の主にも遭わなかったため、近郊を窃取するに留まったと評す。乾歸については、詐術と武力で一時勢いを得たが、遠大な智略に欠け、身内の変(甥公府の弑逆)で終わったのは当然の帰結とする。熾磐については、機を見て果断に動き俊傑を用いて勝利を重ねた点を「盗にも道あり」と評しつつ一定の評価を与える。