即位から東晋への降伏(342年-347年)
- 李勢、字は子仁。李壽の長子(実は李鳳の娘の子とされる)。李壽の死後に即位(太和と改元)。弟の大将軍李広が太弟の地位を求めたが拒絶され、馬当・解思明の擁護もむなしく、勢は李広を疑って攻め自殺に追い込み、馬当・解思明も三族皆殺しにされた。
- 反発した李奕が挙兵したが敗死。以後、蜀に獠族が流入して統治は不安定化し、勢は財欲・色欲に耽り国事を顧みず、大臣を粛清するなど恐怖政治を敷いた。
- 東晋の大司馬桓温が水軍で蜀を征討(347年、永和3年)。李勢方は将の統率の乱れから連敗し、桓温軍は成都に迫って城門を焼いた。勢は夜に脱出したが、降伏文を送り桓温に投降した。桓温は勢とその一族を建康へ移し、勢は帰義侯に封じられた。升平5年(361年)建康で没した。在位5年で成漢は滅亡。
- 李特の挙兵(惠帝太安元年=302年)から数えて6世、46年間続き、東晋穆帝永和3年(347年)に滅んだ。
史論
- 史臣は、戎狄が中華を乱すのは古来の常であり、巴・濮の雑種は元来剽悍で、李特はその凶狡さで早くから梟雄として知られ、晋の統治の乱れと羅尚の無策に乗じて蜀・漢を席巻したと総括する。統治の失は上に道を失ったことに起因すると評す。
- 李雄(仲俊)は英姿を称えられ、劉備・公孫述の故地を制して薄賦・約法の善政を敷き、孫権に比肩する器量とされる一方、太子を嫡系でなく兄の子に譲った判断は国を乱す遠因となったとされ、天道とも人謀とも評される。
- 李班は寛愛のゆえに災いに遭い、李期は暴戻のゆえに禍を招いたと、それぞれ別の道で同じ滅びに至ったとされる。李壽(武考)は先代の資産を頼りに兵権を窮め位を簒奪した罪深さを楚の共王の囲みにも比されつつ、天寿を全うできたことを幸運と評す。李勢(子仁)は昏虐な政治を継ぎ、東晋の大軍に窮鼠のごとく抗って敗れ、劉禅同様の礼遇を受けて生き延びたことを優遇と評す。
- 賛にいわく、晋の統治が揺らいだ隙に李特が巴・蜀を奪い、五代にわたり46年近く続いたが、簒奪と暴虐が相次ぎ、徳を修めなかったために天険も頼みにならなかった、と総括する。