晉書卷百二十 載記第二十 李特
李特(字は玄休、?–303年)。巴西宕渠の出身で、廩君の末裔と伝わる賨人(巴氐)の首長。斉万年の乱による関西の飢饉で流入した六郡流民を率い、益州刺史趙廞・羅尚と対立して蜀に割拠、建初と改元して自立したが、羅尚・宋岱ら晋軍に敗れて戦死した。成漢建国の礎を築いた人物で、子の李雄が帝位を継いだ。
成漢建国への道を開いた巴氐の首領
- 李特、字は玄休、巴西宕渠の人。先祖は廩君の末裔と伝わる。武落鐘離山の崩壊で現れた赤黒二つの石穴から出た五姓(巴・皥・樊・柏・鄭)が神を争い、剣を穴屋に刺す試みと土船を浮かべる試みの両方に成功した務相(巴氏)が廩君に推された故事が語られる。廩君は鹽陽の鹽神を弓で射殺して天地を開き、夷城に至って土地を占め子孫は繁栄した。秦の統一後は黔中郡とされ軽い賦税(賨)を課され「賨人」と呼ばれた。漢高祖の三秦平定を助けた功で巴郡と改称され不課税の特権(豊・沛と同待遇)を得、勇猛と歌舞(巴渝舞)で知られた。漢末、張魯の鬼道信仰の下で楊車阪に移った一派は「楊車巴」と呼ばれ、魏武帝の漢中平定時に特の祖先五百余家が略陽に移され「巴氐」と呼ばれた。父の慕は東羌の獵将であった。
- 特は若くして州郡に仕え、身長八尺の武勇の士であった。元康年間、氐の齊萬年の乱による関西の飢饉で数万家が漢川に流入する中、特も蜀に向かい劍閣で「劉禪ほどの要害を持ちながら人に降るとは何と愚かな」と嘆じ、閻式・趙肅らに感心された。
- 流民の巴蜀寄食は朝議で却下されたが、賄賂を受けた侍御史李苾が虚偽の報告(漢中一郡では養えぬ、蜀に食を求めさせるべき)をして許可させ、流民が益・梁二州に拡散した。
- 永康元年(300年)、益州刺史趙廞が召還され耿滕が後任となると、廞は叛意を抱き流民を厚遇して味方につけた。特の一党(巴西人)も廞に重用されたが、成都内史滕は流民の危険性を密奏して移還を進言、廞との戦いで滕は敗死した。
- 廞は大都督・大将軍・益州牧を自称。特弟の李庠は威寇将軍として北道を扼したが、その軍規の厳正さを警戒した長史杜淑・司馬張粲の讒言により廞は庠を大逆の罪で処刑、子姪三十余人も殺された。廞は特兄弟の離反を恐れ庠の遺体を返し懐柔したが、牙門将許弇が巴東監軍の職を巡り杜淑・張粲を殺害する内紛も起きた。
- 特兄弟は廞への怨みから綿竹に退いた。廞は費遠・李苾・常俊に北道遮断を命じるが、特は夜襲で費遠軍を大破し成都に迫った。廞は妻子と小舟で逃れる途中、下人朱竺に殺された。特は成都で略奪を行い、廞配下を粛清して朝廷に廞の罪状を報告した。
- 恵帝は羅尚を平西将軍・益州刺史として蜀に派遣、特は弟驤を送り歓迎の意を示し歓心を買ったが、王敦・辛冉は流民(特ら)の粛清を進言、尚は容れなかったものの辛冉との間に緊張が生じた。
- 朝廷が流民の帰郷を命じる符を発すると、特は兄輔の勧めで巴蜀割拠の志を固めた。趙廞討伐の功で特は宣威将軍・長楽郷侯、流は奮威将軍・武陽侯に叙されたが、辛冉が功績報告を怠り恨みを買った。辛冉の流民粛清の企てと苛烈な徴発(梓潼太守張演による関所での財貨捜索)に流民は動揺、特兄弟の停止要請への感謝もあって多くが特のもとに集まり、旬月で二万余に達した(特は北営、流は東営に分営)。
- 特は閻式を羅尚に遣わし期限延長を求めるが、辛冉らの強硬姿勢に閻式は「無事に城を築けば敵に利用される、変が起きる」と危惧した。羅尚は寛大な対応を約すが、辛冉・李苾は独断で曾元・張顯・劉並らに特の陣営を奇襲させた。特はあらかじめ備えており伏兵で大破、田佐・曾元・張顯を討ち取り首を尚・冉に示した。
- 六郡の流民は特を主に推戴、梁統が竇融を推した故事に倣い特を鎮北大将軍として承制封拝させることを上書。特は広漢の辛冉を攻め、羅尚の援軍(李苾・費遠)も阻まれ辛冉は江陽に逃走、特は広漢を占領し成都の尚を攻めた。特は使持節・大都督・鎮北大将軍を自称し竇融の故事に倣って一族・部将に官職を配した。特は蜀人と約法三章を結び善政を敷いたため「李特尚可、羅尚殺我(李特はまだましだが羅尚は我らを殺す)」と謡われた。尚は都安から犍為までの長大な包囲陣(七百里)を築いて対峙した。
- 河間王顒の督護衙博・広漢太守張征、南夷校尉李毅の援軍と羅尚の張龜軍による三方からの攻撃を、特・蕩・雄が撃退。蕩は博・張龜を連破し巴西・葭萌を降した。
- 太安元年(302年)、特は益州牧・都督梁益二州諸軍事・大将軍・大都督を自称し建初と改元、大赦を行った。張征との攻防では、蕩が父の危機に「これぞ死すべき時」と決死の突撃で戦況を覆し、王辛の進言(窮敵は追撃して仕留めるべき)に従い征を討って子の存を捕らえた。
- 李驤らが羅尚軍と毗橋で対峙し連戦連勝、成都を脅かすが、尚は偽降策で驤の陣営を夜襲させ李攀が戦死する損害を受けた。しかし特は反撃し尚軍を大敗させ成都に迫り、蜀郡太守徐儉の小城が降伏、羅尚は大城に籠城、流も江西に進出し尚は和を求めた。
- 益州従事任明の献策(村堡の連携による挟撃)で羅尚は反撃を準備、任明は偽って特に降り内情を探ってから諸村を説いて羅尚に呼応させた。太安二年(303年)、恵帝の派遣した宋岱・孫阜の援軍と羅尚軍の挟撃で特軍は大敗、転戦の末に特・李輔・李遠は討たれ屍は焼かれ首は洛陽に送られた。在位2年。子の雄が王を僭称した際に景王と追諡し、のち帝号僭称に伴い景皇帝、廟号始祖と追尊された。