晉書卷百十九 載記第十九 姚泓
姚泓(字は元子、興の長子、?–417年)。孝行篤いが病がちで経世の才に乏しく、父興の死後に即位したが、赫連勃勃の侵攻、姚懿・姚恢ら一族の相次ぐ反乱、東晋の劉裕による北伐を受けて後秦は急速に瓦解した。長安陥落後に降伏し、建康で斬られ、後秦は姚萇の建国(384年)から32年で滅んだ。
姚泓――後秦最後の皇帝、東晋への降伏
- 姚泓、字は元子、興の長子。孝行篤く温和だが経世の才に乏しく病がちで、興は嗣とすべきか迷ったが、久しくして太子に立てた。博学で談論を好み詩詠を愛好、王尚・段章・富允文が儒術で侍講し胡義周・夏侯稚が文章で交遊した。尚書王敏・右丞郭播が刑政の寛容を厳格化しようとした際、泓は「厳法酷刑は君主の道にあらず」と諭し止めさせた。師の淳于岐が病むと自ら見舞い寝台の下で拝したため、以後公侯が師傅に拝礼する慣例が生まれた。
- 興が平涼にいた間、馮翊の劉厥の叛乱を彭白狼が鎮圧、泓は功を誇らず「後事を委ねられながら綏禦を誤ったこと」を自省し、右僕射韋華に「恭恵の徳あり社稷の福」と評された。弟弼の奪嫡の企てにも動じず、姚紹が弼の与党であっても変わらず信任し、のち紹はその恩義に感じ忠烈を全うした。
- 興の死を秘した後、南陽公姚愔・大将軍尹元らの謀反を誅し、齊公姚恢に安定太守呂超を殺させたが処断が遅れたため恢に不信を抱かれ離反の種となった。義熙十二年(416年)帝位を僭称し永和と改元、諮議堂で服喪、その後親政を開始し直言を奨励した。
- 李閏羌の叛乱鎮圧、北地太守毛雍の反乱平定など各地の動揺が続く中、姚宣が佞臣韋宗の讒言に従い邢望に移り、のち姚紹に誅殺される事件も起きた。戦没者への褒賞制度を整え、宮臣への過剰な封爵は姚贊の諫言で見送った。并州・定陽・貳城の胡の叛乱(曹弘の大単于僭称)は姚懿が鎮圧した。
- 仇池の楊盛の侵攻に対し姚平・姚嵩・姚贊らが応戦するが姚嵩・姚秦都・王煥が戦死する敗北を喫し、天水冀県の異変(石鼓が鳴る等の凶兆)と重なり「秦州は泓の故郷、亡国の兆し」と噂された。
- 赫連勃勃の猛攻で秦州刺史姚軍都が捕らえられ将士五千余が坑殺される惨事、安定の失陥など後秦領は急速に浸食された。姚紹らの反撃で一部を奪還するも劣勢は続いた。
- 東晋の劉裕が北伐を開始、檀道濟・王鎮惡・沈林子らが各方面から侵攻。姚紹は京畿への戦力集中を主張するが梁喜の反対で退けられた。征南姚洸が守る洛陽では、忠臣趙玄の籠城策が佞臣姚禹らの妨害で退けられ出戦して敗死、姚洸は降伏し洛陽が陥落した。
- 姚懿が司馬孫暢の煽動で長安襲撃・姚紹誅殺・泓廃立を企てるが、忠臣張敞・左雅の諫死にもかかわらず強行し、結局姚紹の追討で捕らえられ孫暢らは誅殺された。この内紛の間隙を突かれ関中は動揺を深めた。
- 征北姚恢も安定の民三万八千を率いて長安に迫り「君側の悪を除く」と称して叛乱、諸将が次々に降る中、忠臣苟和は泓に忠誠を誓い金章紫綬を与えられた。最終的に姚紹・姚贊の挟撃で恢とその三弟は討たれ、泓は悲しんで公礼で葬った。
- 劉裕軍は蒲阪・潼関方面にも進攻、沈林子の献策で道濟は蒲阪を放棄し潼関攻略に転じた。姚紹は各所で防戦するが、姚鸞の戦死(九千余の将兵を失う)、姚難・姚彊の敗北が相次ぎ、ついに姚紹は憤死した。
- 泓は魏に援軍を求めるが有効な支援は得られず、劉裕軍が長安に迫る中、姚丕・姚諶ら多くの将が渭橋の戦いで戦死し、泓は単騎で宮に逃げ帰った。王鎮惡が平朔門から入城すると、泓は石橋に出奔し降伏を図るが、十一歳の子佛念は「晋人はどのみち全うさせぬだろう、自裁を」と諫めて自ら宮壁から身を投げて死んだ。泓は妻子とともに降伏、姚贊も宗室子弟百余人と共に降るが劉裕はことごとく殺害、残る一族は江南に遷された。泓は建康の市で斬られ、時に30歳、在位2年であった。処刑地では建康百里四方の草木が枯れ死んだと伝わる。
- 姚萇が孝武帝太元九年(384年)に僭立してから泓に至る三世、安帝義熙十三年(417年)に至って滅亡、あわせて32年であった。
史論
- 史臣曰く、長江遷都(東晋の南渡)以来、群雄が乱に乗じて相争い、天下は容易に鎮まらなかった。姚弋仲は西方より石氏に帰属し、暴君に対しても直言を憚らず忠訓を貫き、最終的に晋への帰順を遺訓とした点は称えるに値する。姚襄は若くして孫策に比される英才だったが、迷路を歩んで非業の死を遂げたのは悲しむべきことである。
- 姚萇は兄弋仲・襄の余緒を継ぎ苻堅滅亡の機に乗じて群豪を糾合し覇業を興した。慕容沖の鋭を借りて函谷・秦地を平定し、魏褐飛の鋭鋒を挫いて東北を鎮めるなど、姦雄の中でも群を抜く智略を示した。しかし新たな陣営を築いて戦功を誇る一方、旧主(苻堅)の屍を暴いて鞭打つなど不仁な行いもあり、天寿を全うできたのは幸運というべきである。
- 姚興(子略)は強敵を破って先業を継ぎ、虚心に賢を求め兄弟の友愛を篤くし賞罰を明らかにしたため、英傑は節を尽くし将士は命を惜しまなかった。汾水・絳水を取り許昌・洛陽を陥し、燕(後燕)を臣従させ蜀(譙縱)を藩とし隴右を平らげ河西を静めるなど、楚の荘王・秦の穆公にも劣らぬ勢いを見せた。しかし功に驕り後患を顧みず、涼を禿髮氏に、朔方を赫連氏に委ねて独断専行が禍を招き、辺城が相次いで陥落、諫言を拒んだことで内紛が頻発、戦の絶えぬ年が続いた。武人に厚恩を注ぐ一方で仏門(桑門)に過分な礼を尽くし、有為の時にあって無為の業(仏事)に耽り華美な暮らしをする者が万を数え、実を捨てて空談を弄する風潮が広まった。漢の盛時ですら鴻都門学の浪費を卑しんだのに、まして偽朝(後秦)の国境が日々侵されている状況で永続的な浪費に堪えられようか。財用は尽き山林にまで課税し、政は荒れ威は挫かれた。これが淪落の由縁であり、天が滅ぼしたのではない。
- 姚泓(元子)は凡庸な資質で国が傾いた後を受け継ぎ、内には内紛、外には防戦もままならなかった。東晋の王師が大義を掲げて長安に迫ると、暗愚な後継者は自ら組み紐をかけて軹道で降った。物極まれば反るとは、まさにこのことをいう。
- 贊にいう。弋仲は剛烈にして、ついに奇節を示した。襄はまことに英果であった。萇は姦雄にして傑物であった。興は基業を崇めて興したが、泓はついに摧かれ滅んだ。後世への戒めとして、この危うい轍を踏んではならない。