晉書卷百十八 載記第十八 姚興下

姚興(?–416年)。後秦二代皇帝で、治世後半は赫連勃勃・禿髮傉檀・沮渠蒙遜ら周辺勢力との抗争と、子の姚弼をめぐる奪嫡騒動に苦しんだ。晩年に弼の反乱未遂を鎮めたのち崩じ、太子泓が跡を継いだ。

年表(2件)
  • 義熙二年406年平北将軍苻宣の漢中侵入をはじめ、赫連勃勃・禿髮傉檀らとの抗争が続く治世後半に入った
  • 義熙十二年416年子の耕兒・愔による端門襲撃の乱を鎮めた直後、51歳、在位22年で崩じた。文桓皇帝と諡された

治世後半、諸勢力との抗争

  • 晋の義熙二年(406年)、平北将軍苻宣が漢中に入り梁州別駕呂營らが呼応、楊盛に援を求めたが晋軍が武興を守り、楊盛は改めて晋と通じた。太子泓に尚書事を録させた。慕容超の司徒鐘・僕射嶷らが亡命。華山郡で地面が沸騰し百余歩の範囲で生物を焼く異変も記される。
  • 赫連勃勃が高平公沒奕於を殺して叛いた。魏主拓跋珪との婚姻話は魏の別立后により一度破談となり柴壁の戦いに至ったが、のち魏と再び和議し、捕虜となっていた狄伯支・姚伯禽らが送還された。禿髮傉檀・沮渠蒙遜の抗争や、蜀の譙縱が桓謙を求め晋に叛いた経緯も記される。
  • 中軍姚弼らが禿髮傉檀を、齊難らが赫連勃勃をそれぞれ討伐。吏部尚書尹昭の持久策(傉檀と蒙遜を相争わせる)は容れられず、弼は昌松を抜き姑臧に迫るが傉檀の反撃で敗退。齊難は勃勃に捕らわれた。姚沖の長安襲撃を企てる謀は狄伯支の反対で頓挫し、沖は伯支を鴆殺した。
  • 譙縱を大都督・相国・蜀王に冊封するなど懐柔しつつ、東晋の桓謙討伐軍を支援。姚沖の凶険を見抜いた興は死を賜り庶人の礼で葬った。晋の宗室(河間王子国璠ら)の亡命も相次いだ。
  • 赫連勃勃の侵攻に際し、群臣の反対を押し切って興自ら出陣しようとするが尚書郎韋宗の追従や蘭台侍御史姜楞の直諫が交錯し、結局姚文宗・齊莫の奮戦で勃勃を退けた。
  • 蜀の譙縱の求めに応じ荊州で桓謙・苟林らを支援するが枝江で敗れる。国用不足を補うため関津の税や塩竹山木への課税を強行、群臣の反対を押し切った。城門を巡る王滿聰の職務堅持の逸話も記される。
  • 乞伏乾歸の叛乱、赫連勃勃の攻勢が続き、姚廣都・姚壽都らが敗れる中、姦臣姜紀が子の姚弼に取り入り、弼が尚書令・侍中・大将軍として権勢を強め、奪嫡の兆しが生じ始めた。
  • 郭播・索棱らの人材登用策が語られ、乞伏乾歸が帰順するが情勢は流動的であった。姚詳が赫連勃勃に敗れて捕らえられるなど、嶺北方面の防衛が動揺した。
  • 潁川太守姚平都の献策(劉裕討伐)に興は「劉裕の脅威は子孫の代にこそ憂うべき」と応じ、涼州の梁国兒の逸話(生前に自ら壽塚で宴を催す奇行)も記される。天変地異が頻発し公卿が引責を申し出るが興はこれを退けた。
  • 仇池の楊盛の叛乱を趙琨・楊伯壽らが討つが伯壽の怯懦により敗れ、興は伯壽を斬った。乞伏乾歸が部下に殺され子熾磐が立つと群臣は好機として討伐を勧めるが、興は「先に善を通じた乾歸を喪に乗じて討つのは本意でない」と拒んだ。
  • 楊佛嵩に赫連勃勃討伐を命じるが、興は事前に「配下五千に抑えるべきところ大軍を与えては必敗する」と危惧した通り、佛嵩は捕らえられ絶命した。皇后齊氏を立て、姚緒・姚碩德・姚旻・姚崇・尹緯ら二十四人を萇廟に配饗、以後は大臣の死に自ら弔問する慣例を定めた。
  • 姚弼が姚文宗を讒言で死に追いやり、以後群臣は弼を恐れて何も言えなくなった。貳縣の羌の叛乱、彌姐亭地の乱などが相次ぎ、弼は私党(尹沖・唐盛ら)を広げていった。右僕射梁喜・侍中任謙・京兆尹尹昭らが「弼の廃立の企て」を興に諫言するが興は黙し明言を避けた。
  • 興が病篤くなると弼が反乱を企図、太子泓は東華門に屯兵し防備。姚裕の急報で蒲阪の姚懿が挙兵し将士を糾合、諸方の姚氏一族も呼応する事態となったが、興の病が癒えたため事は収まった。尹昭らの勧告(弼の権力削減)に対し興は弼を尚書令から免じ将軍・公として就第させるにとどめた。
  • 魏との婚姻・和親を進める一方、姚懿ら一族が重ねて弼の処断を求めるが興は許さなかった。撫軍東曹属薑虯の上疏(弼の禍根を絶つべし)にも興は返答に窮した。
  • 晋の司馬休之・魯宗之らが劉裕に敗れて亡命、興は休之を鎮南将軍・揚州刺史とし襄陽方面の攪乱を託した。赫連勃勃配下の赫連建の侵攻を姚弼が撃退し捕らえて送った。
  • 白虹貫日の凶兆の中、姚弼が病と称して私兵を集める動きを見せ、興は激怒しその党(唐盛・孫玄ら)を殺した。泓が「自分を除いて国が安んじるなら」と自ら身を引く覚悟を示すと興は心動かされ弼を捕らえて糾問するが、泓の懇願で処刑は思いとどまった。
  • 興が華陰から長安に戻る際、泓は側近の進言(弼党の動静を警戒すべし)に従い深く自制して迎えた。弼党の尹沖らは太子暗殺を謀るが逡巡し実行に至らなかった。興は泓に録尚書事を命じ、姚紹・胡翼度に禁軍を統べさせ、弼の武具を武庫に収めさせた。
  • 病がさらに篤くなると、興の少子耕兒が兄愔に「上すでに崩ず、速やかに事を決すべし」と告げ、愔らが甲士を率いて端門を攻めるクーデターが発生。斂曼嵬・胡翼度・姚和都らが防戦し、興自ら前殿に臨んで弼に死を賜ると禁兵は奮起して賊を撃退、愔は驪山に逃亡した。興は姚紹・姚贊・梁喜・尹昭・斂曼嵬を召し後事を託し、義熙十二年(416年)51歳、在位22年で崩じた。文桓皇帝と諡され廟号高祖、墓は偶陵と称された。