晉書卷百十三 載記第十三 前秦 苻堅上

苻堅(字は永固、一名文玉、338–385年)は苻雄の子。苻生を弑して大秦天王を称して即位し、王猛ら賢才を用いて内政を刷新、前燕を滅ぼして華北の大半を統一した前秦の全盛期を築いた君主。

年表(5件)

苻堅――前秦の全盛を築いた君主

出自と若き日

  • 苻堅、字は永固、一名文玉。苻雄の子。祖父洪の代に鄴に移住。誕生に際し神光や背に浮かぶ「草付臣又土王咸陽」の文様など瑞祥の伝説が付される。7歳で聡敏、8歳で学問を志願、洪も驚いて許した。高平の徐統に「覇王の相あり」と評された。

苻生誅殺と即位(永興元年=357年)

  • 苻健が関中入りの際、堅を龍驤将軍に任じた故事にちなみ、堅は志気を奮い立たせた。王猛・呂婆樓・強汪・梁平老ら賢才を得て、薛贊・権翼にも「非常の人」と評された。苻生の暴政に対し薛贊・権翼の勧めで謀主となり、梁平老らの後押しで生を弑し、兄法に位を譲ろうとしたが法は固辞、群臣の推挙で堅が大秦天王を称した(永興元年=357年)。生の幸臣董龍・趙韶ら二十余人を誅殺し大赦。父雄を文桓皇帝、母苟氏を皇太后に追尊。兄法・従兄柳ら宗族に要職を与え、旧臣魚遵・雷弱兒ら苻生に殺された者を名誉回復した。母苟氏は兄法の人望を懼れ、堅の意に反してこれを殺害させ、堅は慟哭して哀公と諡した。

内政刷新と学問振興

  • 廃職の再興、鰥寡孤独への配慮、殊才異行の顕彰を進めた。張平の并州反乱を鄧羌が鎮圧。龍門で険阻な地形を誇る堅に対し権翼・薛贊は「徳によらねば国は保てぬ」と諫め、堅は喜んでこれを容れ倹約に努めた。
  • 王猛が重用され朝政を統括、氐豪の樊世が猛を侮辱・脅迫すると堅は激怒し世を誅殺、以後公卿は猛を畏敬した。堅は権翼の諫めを受け入れ度量の広さを示した。堂々たる学問振興策(太学臨幸、経義の親試)を進め、儒学が復興し「多士」と称される盛況を呈した。

法治と粛正

  • 王猛が特進強德(健の妻の弟)を誅殺、中丞鄧羌と協調して二十余人の貴戚豪強を粛正し、堅は「天下に法あり天子の尊あるを知った」と感嘆。地方巡察・官吏考課の制度も整えた。
  • 商人趙掇らが王侯に擬した奢侈を程憲の諫言で正し、車馬・服飾の身分規制を制定した。

匈奴・烏丸の懐柔と関中経略(興寧年間=363-365年頃)

  • 匈奴左賢王衛辰の投降者に対する掠奪事件では、堅は信義を重んじ資産を返還させ担当官を処罰。烏丸独孤・鮮卑没奕於の投降に際しては苻融の進言で塞外に置き警戒を怠らなかった。
  • 慕容暐配下の慕容恪が洛陽を陥し、堅は陝城に自ら屯して備えた。匈奴曹轂・衛辰の反乱を楊安・毛盛らが鎮圧、堅自ら朔方を巡撫した。

涼州方面の攻防

  • 王猛・楊安が荊州北鄙を攻め、羌の斂岐討伐や張天錫との枹罕をめぐる攻防を経て、王猛が計略で李儼を降した。
  • 苻雙(上邽)・苻柳(蒲阪)・苻庾(陝城)・苻武(安定)の反乱では、王猛・鄧羌・楊安らが各個撃破し、柳・雙・武・庾はいずれも討たれ、堅の支配は関中に確立した。

慕容暐(前燕)攻略(太和四~五年=369-370年)

  • 晋の桓温が枋頭で燕を圧迫すると、堅は苟池らを救援に送ったが敗れて帰還。前燕から亡命した慕容垂を王猛は「除くべき人傑」と警戒したが、堅は「至誠で迎えた者を害せば人心を失う」として容れなかった。
  • 燕が武牢以西の割譲を反故にすると堅は激怒、王猛・梁成・鄧羌に慕容垂を郷導として洛陽を攻めさせ、慕容築を降した。太和五年、王猛率いる六万が壺関・晋陽を陥し、鄧羌の奮戦もあって潞川で慕容評の四十万を大破。王猛は鄴を包囲、堅も十万を率いて合流し鄴を陥落させた。慕容暐は捕らえられ、燕の戸口(郡百五十七、県千五百七十九、戸二百四十五万余、口九百九十八万余)を接収。王猛を冀州牧、郭慶を幽州刺史とした。

前燕平定後の措置

  • 枋頭を永昌県と改め租税を永免、辟雍で孔子を祀り太子・公卿の子弟に礼を学ばせた。関東豪傑・雑夷十万戸を関中に移し、丁零翟斌を新安に、陳留・東阿の民を青州実にあてる等、大規模な人口移動政策をとった。

各地平定(仇池・涼州・吐谷渾)

  • 晋の壽春を守る袁瑾を救援するも王師に敗れる一幕もあった。仇池の楊纂を苻雅・楊安らが降し、涼州の張天錫は敦煌の捕虜返還を機に称藩、堅は驃騎大将軍・涼州刺史等に任じた。吐谷渾の碎奚も馬・金銀を献じ帰順した。

諫言を容れる君主像

  • 鄴での狩猟に耽った際、伶人王洛の諫めで直ちに猟を止めた逸話や、桓温の廃立(海西公)事件への評(「怒室色父」の譬え)が記される。

蜀・漢中の平定

  • 関中の旱害に区種法を導入、儒学振興を継続。晋の梁州刺史楊亮の子広が仇池を襲うも敗退、堅は王統・毛当らを派して蜀(益州)を陥し、姚萇を寧州刺史に任じた。蜀人張育・楊光の反乱も鄧羌・楊安らが平定した。

苻融の諫言と鮮卑重用への警戒

  • 彗星などの天変を機に慕容暐一族の誅殺を進言する声があったが堅は容れず、逆に暐を尚書、垂を京兆尹、沖を平陽太守に任じた。苻融は「猛獣は飼えぬ、狼子野心」と上疏したが、堅は「徳を修めれば災いは消える」と退けた。

蜀方面の完全平定と代(拓跋)攻略

  • 楊亮の蜀侵攻失敗に乗じ王統・毛当らが成都を陥落。張育・楊光ら蜀の反乱勢力も鄧羌らが討った。
  • 涼州の張天錫を苟萇・姚萇らが姑臧で降伏させ(涼州平定)、代王涉翼犍を苻洛らが討ち、その子翼圭が父を縛って降した。堅は翼犍を太学で学ばせ、部落を分割して統治した。太学での問答で翼犍が「学ばずして何のために召されたのか」と機知に富んだ受け答えをし堅を感心させた話も記される。

涇水灌漑事業と対晋侵攻の開始

  • 鄭白渠の故事に倣い涇水を開鑿する大規模灌漑事業を行い成果を上げた。晋の襄陽・淮南方面への侵攻を開始し、苻丕・慕容暐・苟萇らが襄陽を、俱難・彭超らが淮陰・盱眙方面を攻めた。

西域経営と外国からの朝貢

  • 梁熙の使者による西域宣撫で大宛の天馬をはじめ十余国が朝貢。堅は漢文帝の故事に倣い献上馬を送り返し、群臣に「止馬詩」を作らせた(四百余人が詩を献じた)。

襄陽攻略の完了(太元三~四年=378-379年)

  • 苻丕の襄陽包囲が長期化すると御史中丞李柔が弾劾、堅は使者を派して督戦し「来春不捷なら自裁せよ」と厳命。苟萇の持久策と征南主簿王施の進言により総攻撃を敢行、太元四年(379年)ついに襄陽を陥し晋の硃序を捕らえた(度支尚書に任用)。

淮南方面の攻防

  • 彭超の彭城包囲、俱難の淮陰陥落、梁成の淮南攻略など各地で戦果を上げるも、謝玄率いる晋軍の反撃(白馬塘・三阿・盱眙・淮陰での連戦)により最終的に彭超・俱難は敗退。堅は敗軍の将彭超を檻車に載せて処罰し、超は自殺、難は庶人に落とされた。

苻洛の反乱(太元七年頃=382年)

  • 益州牧への左遷に不満を抱いた苻洛が幽州で挙兵、大将軍・大都督・秦王を自称。堅は竇沖・呂光らに討伐させ、中山の戦いで大敗させて洛を捕らえ、涼州に流した。

関東の統治強化と瑞祥・怪異

  • 洛の乱平定後、堅は一族子弟十五万戸を関東の要地に分封する「磐石の宗」政策を実施、苻丕を鄴に鎮させた。高陸で発見された亀の怪異譚(後に太廟で死に、亡国の予兆と噂された)も記される。

奢侈への諫言

  • 前燕・前涼など諸国平定後の国内殷賑を背景に、堅が正殿に珠簾を垂らすなど奢侈に流れると、尚書郎裴元略が堯舜の質素を説いて諫め、堅は珠簾を撤去した。

対外朝貢の隆盛

  • 鄯善・車師・大宛・肅慎・天竺・康居・于闐など六十二国が方物を貢いだ。

史官粛正

  • 堅は母苟氏の醜聞(李威との密通)を史官が記録していたことを知り激怒、起居注・著作の記録を焼却、著作郎の追及を図ったが対象者が既に死去していたため沙汰止みとなった。

荊州方面の小競り合い

  • 荊州刺史都貴の竟陵侵攻を桓沖配下の桓石虔・郭銓らが撃退し、王師の勝利で本巻は結ばれる。