苻洪――前秦の始祖
出自と台頭
- 苻洪、字は廣世。略陽臨渭の氐人。有扈氏の末裔とされ、代々西戎の酋長。家の池に長さ五丈の蒲が生えたことから「蒲家」と呼ばれ蒲を氏とした。父懐帰は部落の小帥。隴右の大雨に際し「雨若不止、洪水必起」の童謡から名を「洪」とした。施しを好み権略に富み、騎射に長けた。
- 永嘉の乱に際し千金を散じて英傑を招き、宗人蒲光・蒲突らに盟主に推された。劉曜の長安僭号に際し帰順して率義侯となったが、曜の敗死後は隴山に退いた。石季龍が上邽を攻めると洪は降り、冠軍将軍として西方経略を委ねられた。関中豪傑・羌戎の内地移住を献策してこれを実現、龍驤将軍・流人都督として枋頭に置かれ、西平郡公に封ぜられた。
- 冉閔が石季龍に「苻洪父子は非凡、密かに除くべし」と讒言したが季龍は逆に厚遇。石遵即位後、閔の讒言で洪の都督位が解かれ、洪は晋に降った。石鑒が石遵を殺すと各地で兵乱が起こり、洪は十余万の衆を擁するに至った。
苻氏改姓と最期(永和六年=350年)
- 永和六年(350年)、東晋は洪を征北大将軍・都督河北諸軍事等に任じた。讖文「草付応王」と孫堅の背に「草付」の字があったことから苻氏に改姓、大将軍・大単于・三秦王を自称した。「天下取りは漢祖より容易」と豪語したという。
- 石季龍配下の麻秋が石虎の死後投降し、洪はこれを軍師将軍としたが、麻秋は洪を鴆殺してその軍を奪おうとし、世子健がこれを討った。洪は臨終、健に「関中の形勝に拠り、鼓行して西に向かえ」と遺言し、66歳で没した。健の即位後、恵武帝と追諡された。
苻健――前秦の建国者
関中入りと長安占拠(永和六~七年=350-351年)
- 苻健、字は建業。洪の第三子。石季龍父子に寵愛されたが、季龍は内心苻氏を忌んで諸兄を密殺、健のみ害さなかった。洪の死後、健は秦王号を退け晋の爵を称し、朝廷に喪を報じた。
- 京兆の杜洪が長安に拠り晋の官を自称していたのに対し、健は密かに関中攻略を図り、枋頭の宮室造営や麦作の督励で西進の意図を偽装。西進の決意に際し兄子菁に今生の別れを告げ、盟津に浮橋を架けて渡河、これを焼き払って背水の陣とした。杜洪の将張先を潼関で破り、なお和議を装ったが杜洪は誘いを警戒して拒絶。健は易占を用い進軍を決断、渭北を略し陰槃で張先を捕らえ、三輔を平定して長安に入城、洪は司竹へ逃れた。
天王即位から皇帝即位まで(永和七~八年=351-352年)
- 群臣の勧進により永和七年、天王・大単于を僭称、皇始と改元、宗廟社稷を整え百官を置いた。妻強氏を皇后、子萇を皇太子、弟雄を丞相とした。
- 晋の梁州刺史司馬勲の侵攻を五丈原で撃退。永和八年、皇帝に即位。杜洪は部将張琚に殺され、琚は自立するも健に討たれた。雄・菁は関東を掠め、石季龍配下の張遇を許昌で援けて晋の謝尚を潁水で破り、遇を捕らえて豫州刺史とした。だが遇は健の処遇に恨みを抱き反乱を企て発覚、誅殺された。
桓温の北伐と関中防衛(永和十年=354年)
- 東晋の桓温が四万を率い長安に迫り、上洛・西鄙を攻略。健は太子萇に雄・菁ら五万を付けて迎撃、灞上まで押されるも堅守と焦土戦術で桓温軍を飢餓に陥れ、最終的に撤退させた(潼関で追撃も成功)。萇は流矢に当たり戦死。
内政と災異
- 来賓館を設けて遠方の民を懐柔し、法三章の約、薄賦・倹約政治を敷いて関右の民は「来蘇」と称えた。新平の怪異譚(長人の出現、河で得た大きな屐)や蝗害の記事が伝えられ、健は自ら租税を免じ質素を旨として対応した。
苻生の変と健の死(永和十一年=355年)
- 萇の死後、三男の生を太子とした。健の病中、菁が東宮に兵を入れ苻生を殺そうとしたが健の生存を知り撤退、健はこれを討って誅殺。数日後、健は39歳で死去、在位4年。明皇帝と追諡され、廟号は世宗(のち高祖に改む)。
苻生――暴虐の君主
生い立ちと性向
- 生、字は長生。健の第三子。隻眼で、祖父洪の戯れに刀で自らの目元を刺して「これも涙だ」と答える等、幼少期から凶暴な性向を示した。健も殺意を抱いたが雄が「成長すれば改まる」と諫めて留まった。長じては力量千鈞、格闘・騎射に秀で、桓温の来襲時には単騎で敵陣に斬り込む勇猛さを見せた。
即位と粛清(永和十二年=356年)
- 讖言により太子となり、健の死後に即位、壽光と改元。強懐の子延の処遇を巡る訴えを退けて母を射殺、大喪の凶兆を説く臣下の諫言に激昂して皇后梁氏・太傅毛貴・車騎梁楞・僕射梁安を殺害、さらに丞相雷弱兒とその一族三十六人を誅殺し、諸羌が離反した。
濫殺と暴政
- 宴席で臣下を射殺し、日蝕を理由に司空王墮を誅殺、目の疾を揶揄されたと曲解し太医令程延の目をえぐって処刑するなど残虐を極めた。星異を口実に太師魚遵とその七子十孫を誅殺、諫言する臣も次々処刑した。猛獣・狼害を天罰とせず、民の犯罪のためと嘯いて対策を怠った。截脛・刳胎・拉脅など酷刑が横行し、宗室・重臣・忠良はほぼ殺し尽くされた。
姚襄との抗争
- 平陽太守苻産を殺し寇掠を続ける姚襄に対し、苻堅の献策で懐柔と挟撃を図るも失敗。苻黄眉・苻堅・鄧羌が黄落で姚襄を討ち破りこれを斬った。黄眉は大功にも拘らず賞されず辱められ、謀反を企てて誅殺された。
廃位と誅殺(永和十一年に始まる在位を経て太和元年頃=357年)
- 清河王苻法の暗殺を企てたが、法は夢告により事前に察知。苻堅・呂婆樓らが挙兵し宿衛は堅側に転じ、生は捕らえられ越王に廃されたのち殺害された。享年23、在位2年、厲王と追諡された。
苻雄――佐命の元勲
- 苻雄、字は元才。洪の末子。兵書に通じ謀略に長け、健の即位を輔けた元勲でありながら謙虚に法を守った。健は「わが姫旦(周公)」と称え、その死に大いに哭いた。子の苻堅の事績は別に載記する。
王墮――剛直の宰相
- 王墮、字は安生。京兆霸城の人。天文図緯に通じ、苻洪に「苻氏は王たるべし」と説いた。健の信任を得て宰相となり、董栄・強国ら佞臣を「鶏狗」と呼んで蔑み対立、生の代にその讒言により処刑された。刑に臨んでも屈しなかった。